此様な事で、遂に長堤を決する怒濤の勢を、彼等の働を以て遂に防ぎ
止めた。彼等といふが、実は矢部の意見で戸塚を率ゐた者であらう。矢
おたすけまい
部の持論として、御助米などは、極めて一時的の姑息の手段であるのみ
ならず、恩に厚薄あるを免れぬ、何よりも価を折るが肝腎だと称して居
たのだから、彼は忠実に此持論の実現の為に働き、遂に功を奏したもの
であつたらう。さればこそ、当時の大阪の市民の口口に、『矢部(ヤレ
おん
と音相似る)嬉し、駿河の国の富士よりも、名は高うなる、米は安うな
る』と歌つたので、正直な人心に映ずる矢部の功績は、戸塚よりも遥に
多しとされたのであつた。
さかん
天明七年には、江戸にも暴徒が蜂起し、打毀しを盛にやる。大若衆に
くわいしゆ いづ
大坊主の両魁首が居つて、何れも怪力を有し、各市街の物持分限の居宅
ひら
倉庫を発いて、其貯蓄は道路に棄て、窮民に随意に持去らせる有様、先
手頭十隊、並に大名の人数を出して、漸く之を鎮圧したといふが、天保
さいはい か
七年の飢饉には、此江戸にも幸に騒擾を見なかつた。是は寛政度に彼の
こくぐら
白河楽翁が、穀倉を浅草、千住、其他に設けさせた其恩恵に因るといふ、
勿論それも有らうが、予は、更に当時大阪より江戸に転任して勘定奉行
の職に居た矢部の力が、又多きに居るを疑はぬ、即ち此時江戸にも三年
ぜん
前の大阪に於けると同じく「御救ひや、飢饉の沙汰を矢部(ヤメと音相
似る)にして、価を安くするが肝腎」の童謡の有つた事が何よりも之を
証する。
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