Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.2.27

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その89

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十二、天保七年の飢饉と大阪 (4) 管理人註
   

 此様な事で、遂に長堤を決する怒濤の勢を、彼等の働を以て遂に防ぎ 止めた。彼等といふが、実は矢部の意見で戸塚を率ゐた者であらう。矢         おたすけまい 部の持論として、御助米などは、極めて一時的の姑息の手段であるのみ ならず、恩に厚薄あるを免れぬ、何よりも価を折るが肝腎だと称して居 たのだから、彼は忠実に此持論の実現の為に働き、遂に功を奏したもの であつたらう。さればこそ、当時の大阪の市民の口口に、『矢部(ヤレ  おん と音相似る)嬉し、駿河の国の富士よりも、名は高うなる、米は安うな る』と歌つたので、正直な人心に映ずる矢部の功績は、戸塚よりも遥に 多しとされたのであつた。                        さかん  天明七年には、江戸にも暴徒が蜂起し、打毀しを盛にやる。大若衆に      くわいしゆ        いづ 大坊主の両魁首が居つて、何れも怪力を有し、各市街の物持分限の居宅    ひら 倉庫を発いて、其貯蓄は道路に棄て、窮民に随意に持去らせる有様、先 手頭十隊、並に大名の人数を出して、漸く之を鎮圧したといふが、天保              さいはい                七年の飢饉には、此江戸にも幸に騒擾を見なかつた。是は寛政度に彼の       こくぐら 白河楽翁が、穀倉を浅草、千住、其他に設けさせた其恩恵に因るといふ、 勿論それも有らうが、予は、更に当時大阪より江戸に転任して勘定奉行 の職に居た矢部の力が、又多きに居るを疑はぬ、即ち此時江戸にも三年 ぜん 前の大阪に於けると同じく「御救ひや、飢饉の沙汰を矢部(ヤメと音相 似る)にして、価を安くするが肝腎」の童謡の有つた事が何よりも之を 証する。



『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その88/その90

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