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一町奉行の心の用ひ方如何によつて、一治一乱ある事、此の如く、怨
磋の声も忽ち化して賞讃の辞となる。民心は如何にも正直なものだが、
ど う
彼れ跡部の政治は如何であつたか、天保四年の江戸附近の一揆の頃には
百文に米五合といふから、一升値段は百六十七文であつたらうが、それ
い か
が今大阪には二百文を遥に突破して進む。斯ういふ際に、跡部に如何な
しうしゆ
る手腕があつたかと見ると、勿論袖手傍観して居た訳ではなく、相応に
骨は折つて居た、即ち一通りの窮民救助はやつて居たが、而かも之を前
後の矢部、戸塚の当時に引較べると、頗る大差がある。此前には極貧者
うち
を調べ出して、三郷の囲籾の中から毎戸に白米一升と銭百文、四歳以上
づつ
の男女毎一人に白米一升宛、都合之を三千人に与へた、一面富豪の寄捨
を見るに、平野屋五兵衛は貧民一人毎に白米一升を与へ、鴻池屋善右衛
門、加島屋久右衛門等二十二名は銭一万二千五十貫文を出し、是が窮民
各戸に二百二十一文宛行渡る。其残額に鴻池屋伊兵衛外四名、及び淡路
町一丁目外三丁等の義捐金を加へて、三郷毎町に一貫八百九十文宛配当
する、近江屋権兵衛外一名及び源右衛門町の寄附金で、同じく毎町四百
ふたゝ
七十文宛配当する、其次には復び鴻池屋、加島屋等四十九名、土佐堀一
丁目、外二町の寄附金二万九百貫五十文があつて、窮民毎戸に三百三十
八文を与へる。其外各町、各組合、及び個人の寄附も少くなかつたが、
ひら
七年には将棋島の籾倉を発いて白米に仕上げ、一人五合限り四十五文と
いふを初回とし、川崎の官廩を発いて等しく精白し、一人五合限り四十
二文といふを次回として貧民に廉売し、其後は無代で施与して居るが、
之を受けた人員は不明である。又三郷有志の義捐金総額は金五両、銀十
枚、銭一万五千百十貫文で、毎戸一人住の者に二百文、二人住以上の者
つきまい
に三百文を配当して居る。それから天満東西の搗米屋から、白米十七石
五斗一升を出して、極貧者に五合宛を給与し、翌八年二月に大阪、兵庫、
西宮の窮民へ玄米二千石を施給した等で尽きて居るので、両両対比し来
さかん
れば、到底前後の如く盛なるを得ぬ。
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最後の施給は
乱発生後の
ものか
「御触」
その3
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