Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.2.28

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その90

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十二、天保七年の飢饉と大阪 (5) 管理人註
   

 一町奉行の心の用ひ方如何によつて、一治一乱ある事、此の如く、怨 磋の声も忽ち化して賞讃の辞となる。民心は如何にも正直なものだが、          ど う 彼れ跡部の政治は如何であつたか、天保四年の江戸附近の一揆の頃には 百文に米五合といふから、一升値段は百六十七文であつたらうが、それ                               い か が今大阪には二百文を遥に突破して進む。斯ういふ際に、跡部に如何な                しうしゆ る手腕があつたかと見ると、勿論袖手傍観して居た訳ではなく、相応に 骨は折つて居た、即ち一通りの窮民救助はやつて居たが、而かも之を前 後の矢部、戸塚の当時に引較べると、頗る大差がある。此前には極貧者              うち を調べ出して、三郷の囲籾の中から毎戸に白米一升と銭百文、四歳以上            づつ の男女毎一人に白米一升宛、都合之を三千人に与へた、一面富豪の寄捨 を見るに、平野屋五兵衛は貧民一人毎に白米一升を与へ、鴻池屋善右衛 門、加島屋久右衛門等二十二名は銭一万二千五十貫文を出し、是が窮民 各戸に二百二十一文宛行渡る。其残額に鴻池屋伊兵衛外四名、及び淡路 町一丁目外三丁等の義捐金を加へて、三郷毎町に一貫八百九十文宛配当 する、近江屋権兵衛外一名及び源右衛門町の寄附金で、同じく毎町四百              ふたゝ 七十文宛配当する、其次には復び鴻池屋、加島屋等四十九名、土佐堀一 丁目、外二町の寄附金二万九百貫五十文があつて、窮民毎戸に三百三十 八文を与へる。其外各町、各組合、及び個人の寄附も少くなかつたが、            ひら 七年には将棋島の籾倉を発いて白米に仕上げ、一人五合限り四十五文と いふを初回とし、川崎の官廩を発いて等しく精白し、一人五合限り四十 二文といふを次回として貧民に廉売し、其後は無代で施与して居るが、 之を受けた人員は不明である。又三郷有志の義捐金総額は金五両、銀十 枚、銭一万五千百十貫文で、毎戸一人住の者に二百文、二人住以上の者                      つきまい に三百文を配当して居る。それから天満東西の搗米屋から、白米十七石 五斗一升を出して、極貧者に五合宛を給与し、翌八年二月に大阪、兵庫、 西宮の窮民へ玄米二千石を施給した等で尽きて居るので、両両対比し来           さかん れば、到底前後の如く盛なるを得ぬ。

最後の施給は
乱発生後の
ものか
「御触」
その3


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その89/その91

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