平八郎は、明春、堺七堂浜にて丁打(町間を定めて鉄砲の試射をなす
こと)を試みる其準備だとて、九月頃より門人瀬田済之助、小泉淵次郎
等数名と共に、火薬、棒火矢(鉄製の長い筒に火薬を込め、砲で発射す
くうぐわん
るもの)、炮碌玉(用ひ方は今の爆裂弾に似、銅の空丸に火薬を詰め、
口火を施し、布にて包み、上を漆で塗つたもの)等の製造に密に従事し、
庄司義左衛門をして焔硝火薬を集めしめ、天満北木幡町の大工作兵衛を
招きて、火矢に用ふる棒を作らしめ、次には白井孝右衛門方より松の木
材を譲受けて、木砲を作り、高槻藩士柘植牛兵衛所持の百目筒をば所持
の刀一腰、唐画一幅と交換し、済之助をして同組与力由比万之助の父彦
之進、及び堺桜町の鉄砲鍛冶芝辻長左衛門より百目筒各一挺を借出させ、
又河合郷左衛門、吉見九良左衛門の二人をして、天満今井町の樫木職尼
崎屋仁兵衛、同所南森町尼崎屋仁右衛門、同所北森町鍵屋弥兵衛に注文
し、大砲の車台を作らせ、次に江ノ子島東町の次右衛門を招いて、木筒、
ふせとひ
及び鉄砲台に用ふる伏樋類似品を作らせ、其外、小銃、槍、刀、脇差を
まつのきぼう ひうちいし
蒐集し、修理の準備をも為し、松木棒十本、樫木棒十本、燧石壱貫目、
のみ
燧金大小七挺、筍掘鑿六挺、草鞋廿五足、表五七桐、裏蔦の紋所、下に
二つ引の印附提灯弐拾張をも調整した。それから北久太郎町五丁目の版
しゆつたい
木師次郎兵衛に檄文の版木の彫刻を命じ、それが出来すると、塾生、英
太郎八十次郎の二人をして夜中檄文を摺上げさせた。其檄文は左の通り、
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