うこん
之を西の内五枚続に印刷し、鬱金色の加賀絹の袋に入れ、袋の上に『天
より被下候』と中央に書き、左の脇書に『村々小前ものに至迄へ』と記
いよい
し、其裏に伊勢太神宮の御祓を結付、愈よ事を挙ぐる機熟したる時に、
上田孝太郎、額田善右衛門等をして、右諸国の村々へ配布させる手筈を
定めた。
平八郎は此檄文で知れる如く、時の悪政に激せられて立つたものでは
たゞち くつがへ
あるが、彼は直に是を以て徳川の天下を覆さうと謀つたとは思へぬ、勿
論彼に勤王の志は強かつたに相違なく、それは彼が伊勢参拝をして自己
の著書洗心洞箚記を初め、朱子全集、陸象山全集、古本大学刮目等を宮
た
崎、林崎の両文庫に納めた事や、又彼の初志には後唐の明宗が香を焚い
なら
て天に祈つた意志に倣ひ、洗心洞箚記を朝熊山上に焼いて、それを以て
つげ
自己の志を天照太神の神霊に告んとしたが、御師職足代弘訓の勧めによ
つて、文庫に納めたといふ事等を考へて、彼が如何ばかり厚き崇敬の念
うち
を我が皇室に抱いて居たかも知れるし、又此檄文の中にも『天子は足利
いづかた
家已来、別て御隠居御同様、賞罰之柄を御失ひに付、下民之怨、何方へ
告愬とて、つげ訴ふる方なき様乱れ候付』といひ、又『江戸へ廻米をい
たし、天子御在所之京都へは廻米之世話も不致而已ならず』といひ、
『都て中興神武帝御政道之通』といひ、『天照皇大神之時代に復し難く
まじはり
とも』といつてある位だ、又彼と殆ど刎頸の交のあつた友人に、勤王思
おも
想の普及者として知られた頼山陽のあった事を憶ひ合はせ、更に時勢の
推移を見るに、山県大弐、竹内式部等現れてより已に七十余年、高山正
之、蒲生君実等現れてより已に四十余年、其度幕府の警戒は加はつて居
るけれども、勤王の思想は下燃えの火の如く、上に圧せられゝば、却て
横に拡がり、烟は次第に低く地を這つて居る有様、時として紅蓮の炎が
けむり
チラリと暗黒な烟の中から現れぬものでもない。
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