Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.3.6

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その95

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十三、挙兵準備と其齟齬 (3) 管理人註
   

             うこん 之を西の内五枚続に印刷し、鬱金色の加賀絹の袋に入れ、袋の上に『天 より被下候』と中央に書き、左の脇書に『村々小前ものに至迄へ』と記                  いよい し、其裏に伊勢太神宮の御祓を結付、愈よ事を挙ぐる機熟したる時に、 上田孝太郎、額田善右衛門等をして、右諸国の村々へ配布させる手筈を 定めた。  平八郎は此檄文で知れる如く、時の悪政に激せられて立つたものでは       たゞち               くつがへ あるが、彼は直に是を以て徳川の天下を覆さうと謀つたとは思へぬ、勿 論彼に勤王の志は強かつたに相違なく、それは彼が伊勢参拝をして自己 の著書洗心洞箚記を初め、朱子全集、陸象山全集、古本大学刮目等を宮                                崎、林崎の両文庫に納めた事や、又彼の初志には後唐の明宗が香を焚い          なら て天に祈つた意志に倣ひ、洗心洞箚記を朝熊山上に焼いて、それを以て              つげ 自己の志を天照太神の神霊に告んとしたが、御師職足代弘訓の勧めによ つて、文庫に納めたといふ事等を考へて、彼が如何ばかり厚き崇敬の念                        うち を我が皇室に抱いて居たかも知れるし、又此檄文の中にも『天子は足利                              いづかた 家已来、別て御隠居御同様、賞罰之柄を御失ひに付、下民之怨、何方へ 告愬とて、つげ訴ふる方なき様乱れ候付』といひ、又『江戸へ廻米をい たし、天子御在所之京都へは廻米之世話も不致而已ならず』といひ、 『都て中興神武帝御政道之通』といひ、『天照皇大神之時代に復し難く                     まじはり とも』といつてある位だ、又彼と殆ど刎頸の交のあつた友人に、勤王思                      おも 想の普及者として知られた頼山陽のあった事を憶ひ合はせ、更に時勢の 推移を見るに、山県大弐、竹内式部等現れてより已に七十余年、高山正 之、蒲生君実等現れてより已に四十余年、其度幕府の警戒は加はつて居 るけれども、勤王の思想は下燃えの火の如く、上に圧せられゝば、却て 横に拡がり、烟は次第に低く地を這つて居る有様、時として紅蓮の炎が        けむり チラリと暗黒な烟の中から現れぬものでもない。

檄文」
(成正寺版)


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その94/その96

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