現に恰も此平八郎の挙兵準備頃と覚しく、江戸には一種の軽口が伝へ
か
られた。それは斯ういふのだ。、家斉将軍の生父の家とて、権威赫々た
なりあつ
る一橋斉惇卿が、或る日侍臣に向ひ『此頃米直段は如何程か』と問はれ
ると、侍臣は答へて『まだ百文に五合(大阪では米直段一升何文といつ
たが、江戸では百文に何合といつたものだ)でほか御座りませぬ、大し
た事では御座りませぬ』といふと、卿は吃驚した顔で、目を円くし、
こり\/ さぞ
『六合(六郷と音通)でさへ吾は懲々したければ、五合では下民は嘸か
なにゆゑ
し難義なるべし』といはれた、といふ人笑はせの話なのだ。何故此様な
軽口が行はれたかといへば、天保七年七月に此一橋卿が大師河原へ詣ら
れた事があつたが、折しも肥前侯松平直正(鍋島閑叟)が、帰国とあつ
て、川崎駅六郷川先に関札が建てゝあつたのを、無法にも、一橋の先供
げはい
の下輩が、之を御目障りだとて引卸したばかりか、地に投じて土足で踏
にじ
み蹂つて通つたから、後から来た直正は、之を見て大に憤慨し、松平は
将軍より貰つた苗字だが、それが下賤の者の土足に掛けられて済む様な
ゆるがせ
らば、御返上申すといひ、自分は長崎固めの御用が忽にし難いから此儘
帰国するにより、家来を以て此段申上る趣、其留守居役から幕府へ届出
でさせた。それからが大変の騒、到頭一橋卿は閉門、土足に掛けた賤輩
は斬罪に行はれた。聞くもの皆、之を快とし、是より直正の名は天下に
喧伝したといはれて居る。一葉落ちて天下の秋を知る、幕府の鼎の軽重
は此時に問はれて、諸侯の間に徳川の積威を疑ふものを生じたといふ事
か
だから、此かる有様をのみ単に考へて見るならば、或は平八郎の此時の
ひそか
野心は、窃に徳川を倒して、幕政に代ふるに王政を以てせんとするに在
すべ
つたともいへやう、現に都て『中興神武帝御政道の通』などといふ所は、
ほの
宛然たる明治維新の際の御宸翰の王政復古の理想が仄見えても居る。勿
いきほひ よく
論歴史は勢を以て造らるるものだから、平八郎の挙兵の目的が首尾態遂
げられたならば、或はそれから先は、勢の儘で此処迄も漕ぎ付けたかも
知れぬとしても、併し彼が直に此時此の如く決心して、徳川覆滅の秘計
えが
を画いたとは覚えぬ。
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