Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.3.9

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その98

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十三、挙兵準備と其齟齬 (6) 管理人註
   

 彼の奉ずる陽明学は、固より孔孟学であり、而して孔孟の、別して孟 子の精神は純然たるデモクラシーで、湯武を理想とし、『一夫の紂を誅            しい するを聞くも、未だ君を弑するを聞かざる也』とさへ断言して居るのだ から、若し真に孔孟の流を汲む儒者と名乗るならば、何人と雖も、其政 治思想は、此デモクラシーの一直路を走らねばならぬ筈であつた。然る に当時一人の真儒無し。是れ彼の大に憤慨した所であつたに相違ない、                           めいそう 彼が朱子全集を伊勢の両文庫に納むる時の其序に、後唐の明宗の故事を      もと 引いて『事固より異にして情同じ』といへる中に十分に此憤慨の意を洩 して居る。明宗の故事とは何ぞやといふに、明宗は毎夕宮中に於て香を 焚き、天を視て『某は胡人、乱に因つて衆に推されぬ、願はくは、天早 く聖人を生じて、生民の主となせ』といつた此事を指すもの、平八郎は 伊勢の神廟に対して『真に朱子の心を知り、誠に朱子の学を体して、生 死禍福を顧みず、以て世道人心を扶助する一大賢儒の、亦我芙桑の東に 出でん事を祈る』といつて居るが、是が其『情は同じ』と称する所以で       いたづら あらう、彼は徒に上役人の機嫌をのみ伺つて、寧ろ其驕泰を助くるとも、 毫も万民の為に其疾苦を去るの言を進むる真儒なきを痛憤したに相違な           たまた              おほい く、而して人を責むる偶ま此の如きものある所は、又自ら大に任ずる所                  たうろう りうしや であつたので、是が遂に彼をして恰も蟷螂の降車に向ふと見らるべき暴 挙を企てさせた所以である。  彼は『生前の地獄を救ひ云々』と宛然、自己の成功後の善政を予告し                    あふ て居らぬでは無いけれども、それは人心を煽つて衆力を仮るに要する慣        とゞ 用の方便たるに止まる。若しも其善政の予告に多少の信念が籠つて居た とすれば、恐らくは彼の手でする善政では無く、彼の死後、他人の手で      のぞみ する善政に望を属して居たとしか思へぬ。早く言へば、彼の反抗の目標      しせき が、唯眼前咫尺の大阪、若しくは近畿の奸吏と豪商とに在つた点は、恰              きづつ も浅野内匠頭が吉良上野介を傷け、佐野政言が田沼意知を刺したにも譬 ふべく、唯其異なる所は、後の二人の如き一時の私怨のみでなく、是が 民衆の積怨を代表して、後の為政者に対し、艦戒を永遠に垂れんとした 点に在つただけと思ふ。然らずんば、彼の此挙兵の陰謀は、到底合理的 に考へ得ぬ。

檄文」
(成正寺版)
































蟷螂の降車
「蟷螂の斧を
以て降車のわ
だちをふせが
んと欲す」と
いう中国の詩
文より,
自分の力をわ
きまえずに大
敵に立ち向か
うこと









咫尺
距離の近いこ
と


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』目次/その97/その99

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ