Я[大塩の乱 資料館]Я 1999.7.5修正

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大塩の乱関係論文集目次


「鈴木白藤と『塩逆述』」

曾根崎新地のひろ

『大塩の乱関係資料を読む会 第14号』1998.6より転載


◇禁転載◇




今、大塩の乱関係資料を読む会で少しずつ読んでいる『塩逆述』の成立について読みはじめた頃、調べようとしました。

結果はあまりおもわしいものでなく、書物奉行であった鈴木岩二郎が原本か写本を写したものを、別の誰かがまた写したもの、ということくらいしかわかりませんでした。それ以降もわかっていません。

ほぼ同じころに同じ人物か別の人物がもう1冊写本として残し、これは帝国大学の図書館の蔵書となり、1冊は今国立国会図書館に残されています。帝国大学の図書館は関東大震災で火災にあい、『塩逆述』は燃えてしまいました。したがって、同じ人物の手になったかどうかは、筆跡では見ることができなくなっています。

この帝国大学本は、『大阪市史』を編纂するときに、幸田博士が史料として明治末に写本を作らせ、それは現在大阪市史編纂所の架蔵されています。ふたつは、もとが同じなので、当然同じはずですが、写す過程で生じる転記ミスと思われるものが散見するようです。それがどの段階に生じたものか、今は比べることができません。もとの史料の行方を探る方法もわかりません。

以上が3年前に調べた内容です。

このとき国会図書館でお調べいただいたときは、

この資料は本編8冊と付録3冊からなり,本編には「静幽文庫」の印,付録には「うたのやにをさむるふみらのしるし」の印があります,『日本の蔵書印』(小野則秋 臨川書店 1977 )前者は源利義,後者は土屋老平の蔵書印ですが、この2名の人物については各種の人名事典や人物書誌には記載されておらず不明ということでした。
また、『塩逆述』については特に研究されたような文献はないということでした。

「読む会」でテキストにしているのは帝国大学本の系統です。 私の知る限りでは、幸田氏の『大塩平八郎』、中瀬寿一氏の一連の大塩関係の著書、もと大阪市史編纂所所長の藤本篤氏の著書のいくつかに『塩逆述』は引用されています。

読んでいて、だんだんおもしろくなってきたので、一度この鈴木白藤について調べようと思っていてそのままになっていましたが、少し文献にあたりました。

鈴木白藤(岩二郎)は明和6年(1769)生まれで、文化9年(1812)から文政4年(1821)まで書物奉行、嘉永4年(1851)に没しています。
墓は参考文献1では牛込の浄土宗光照寺とのことですが、現在もあるかどうかは確認できていません。

国会本には「嘉永五年八月四日.・」と写した時期を示すような記録があるそうですから、白藤が死亡した翌年、その蔵書を借用した者が写しとったと見てよさそうです。

白藤自身がだれのものを写したかが問題ですが、天保8年(1837)の乱発生時には書物奉行ではなくなっていましたから、内容が江戸城の内情も伝える史料もあるので、書物奉行が収集した情報の記録という可能性が高いのではと思いました。

家康の時代からの蔵書を基本とする紅葉山文庫は、天保元年に4棟の書庫になったあと、慶応2年の書物奉行廃止、維新後文庫資料は大学などの管理に移され、一部は内閣文庫へというふうに残されてきました。
たびたび目録が編纂され、天保7年のあとは、元治元年(1865)に『元治増補御書籍書目』が出されています。この時、5800部15万巻以上を数えています。
「紅葉山本」の蔵書印が押されているそうですが、紅葉山文庫のものを知り合いの書物奉行から密かに借り受けて、白藤が写したということも可能性としてはあるかもしれません。上記の書目は調べていませんので、機会があれば調べてみたいと思います。差し障りがあるので、紅葉山文庫からの写本ということは書けなかったとも推察します。

また、紅葉山文庫の収集対象になる種類の記録ではなかったかもしれません。

しかし、かなり幕府に近い情報も記録していることから、幕府関係者が大塩の乱について、個人的または職務上情報収集に務めた成果物と思われます。この人物に近い白藤が直接か、あるいは、この人物に近い別の人物が写し、それを白藤が写したのかどちらかで、その写本をまた誰かが写しとったという経過のようです。

鈴木白藤はたいへんな蔵書家で、その文庫は「白藤書屋」と呼ばれ、写本の多くは紅葉山文庫のものを写したということです。その蔵書は孫の竹圃が明治の初年に沼津兵学校に奉職したときに学校に委託しましたが、残念なことに、明治5年火災で焼失したということです。人に貸していたもの少しが残りました。このときの火災で『塩逆述』も焼けたのではないでしょうか。

『白藤書屋蔵書目録』があるようですが、これも見るのがむずかしそうです。現存するかどうかも不明です。 白藤は「吝嗇」と伝えられますが、それは収書のために日常の費用を倹約したということが真相のようです。 白藤の免職の原因については、資料1の推察では、真相は不明とことわった上で、「秘密主義を尚ぶ徳川時代にありて、紅葉山文庫の秘書の筆に任せて謄写せしを以つて」ではないかと書いています。

この白藤と同時期の書物奉行に、近藤重蔵守重がいます。文化5年(1808)から文政2年(1819)まで書物奉行を勤めています。この人もたいへんな蔵書家で、「瀧川文庫」がありましたが、子富蔵が八丈島に流配される事件で、改易となり、近江・大溝藩で生涯を終えています。白藤とは時期もかさなり、親しかったようです。重蔵は、文政2年大坂弓奉行になって、大坂の地で大塩と親交を結びます。元年に曾根崎新地の大黒屋ひろを「ゆう」として家に入れ、3年に吟味役になったという若いころの大塩です。大塩に大きな影響を与えたとも言われています。短期の交際でしたが、江戸にもどってから、白藤に大坂の変わった与力の話をしたかもしれません。重蔵自身は文政12年に死亡していますから、乱は知りませんが、白藤が昔あの重蔵から聞いた大塩像を思い浮かべて、単に江戸を騒がせた大事件という以上に、大坂の乱妨一件に興味を抱き、『塩逆述』を筆写させてもらったのではないかとも想像します。

   参考文献
    1 『紅葉山文庫と書物奉行』森潤三郎 昭和書房 1933
    2 『日本文庫史』小野則秋 教育図書 1942

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