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何処までも物と心との二元を偏廃せぬ中斎先生の自然観に従ひまする
と、空虚も空にあらず、宝物と雖も亦虚であります。この空虚空にあら
ざるところに空間論があり、宝物亦虚なるところに自然論が成立つ訳で
あります。
山沢は気を通ずる。山嶽は宝物であるが、能く沢気を感じてその項に
徹し、草木の繁茂を致すのは、山嶽の心虚なるが為めであります。天心
の虚なるを趁ひて水気は昇りて雲となり、地心の虚なるを慕ひて雲気ま
た降りて雨となる、形骸上の空否如何に拘はらず、その心の虚を求めて
之に趨くのは、ひとり水気ばかりでなく、火気金気土気木気悉く然りで
あります。これは自然論の要趣でありますが、自然の有する心の虚はや
はり自然の精粋である人間の有する心の虚と相通ずるものであります。
人心が山川植物から感化を受け、山川植物はた人心の発動によつて、善
くもなり悪くもなり、いか様にも変化して行くのは、相互に空虚を以て
その心とするからであります。更に人と動物との関係、人間同士の関係
になるとその感化薫陶の成績、極めて著しきものがありますが、所謂教
育のポシビリチーはこの人心の本来最も空虚なるより来るのであります。
前に中斎学では人心の所在を形質上に指摘すれば心臓りとの意を申し
ました。一寸聞くとこれは極めて非科学的な独断説のやうに思はれます
が、必ずしも然うではないのであります。ロジクリユシアンの学者も千
里眼の実験から、霊魂の所在を心臓の左心室だと曰つて居ります。それ
が縦令臆説でありましても、他の人間霊智の枢府は頭脳ではなく、神経
太陽叢(Solar perplex)だとする新心理学の説と共に一層勝れた臆説の
唱出されるまで、一概に排斥することの出来ぬものであると私は考へる
のであります。
近代の学者は頭脳に重きを置き過ぐる嫌ひはないでせうか。概説すれ
ば頭脳は智性、心臓は愛情、太陽叢は霊性を、それ/\に司つてゐると
も謂へませうが、中央に位してゐるだけ全身血脉の源泉たる心臓を以て
人心の宿れる舎宅なりとするが一番公平な見方のやうに思はれます。そ
れに人心の善悪清濁なり、喜怒哀楽なりが、血液に変化を及ぼす影響の
いかに甚だしきかを考へ合はせたならば思ひ半ばに過ぐるものがありま
せう。
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山沢
(さんたく)
趁(お)ひて
趨(おもむ)く
ポシビリチー
(possibility)
可能性
枢府
(すうふ)
枢要なところ
perplex
混乱させる
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