Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.9.9

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎空虚の哲理』

その18

高田集蔵

立正屋書房 1925

◇禁転載◇

三、宗教的修練
 (其一)(1)
管理人註
   

 私はこゝに中斎学の真髄たる体験の道、即ち帰太虚の原理と方法を概 論するに方りまして、前の科学的考察、哲学的思索に対し宗教的修練な る標目を設けました。或は諸君の中、世間の宗教なるものに愛想をつか し、若しくは反感を抱いて居られる向があるかも知れません。さうした 向きの人は「宗教」を申込まれるかも存じませぬが、しかし私のこゝに 用ひてゐる「宗教的」なる形容詞は、英語の Religious 即ち拉典語の Religio 或は Relligio から来てゐるものから訳されたのであります。 この語の起源に就いてはシセロ以来随分議論があつたさうですが、やは り Religere(集める)或は Religare(結びつける)といふ動詞から来 てゐるらしいのであります。re+jegere 元と一つであつた物が分離され てゐる。それをもう一度結び付けるの義でありまして、つまり神人合一 を意味する宗教の精神なのであります。天は永へに太虚であり、人心も 本来空虚なるものであるのに、之を失つてゐる。それを何うかしてもう 一度大虚に帰つて天と合一しようと云ふのが中斎学の本旨だとするなら ば、それは最も能く Re-legere 即ち宗教の本義に一致して居るのではあ りませんか。果して然りとすれば、私がこゝに宗教的修練なる言葉を使 用致しましたのも、さしてお咎めになる程の事でもありますまいか。  さて前章の終りに一寸聖人と常人の別を申しましたが、中斎先生は人 物を大体に於てこの二つに分たれたのであります。そして天の大虚が物 言はぬ聖人である如く、聖人は物言ふ大虚であると申されました。それ からまた聖人の虚心は万有を包容し、血気ある者よりして草木瓦石に至 るまで、その死滅廃壊するのを見ては堪え難き慈愍哀傷を感ずるのであ ります。即ち彼は身外の虚を以て心となし、天地間一切の現象を以て我 が心中の事と為すのであります。之に反し常人は私慾によりてその心塞 がれ、本来の虚を失つてゐるから、外物に対する同情の念薄く、たゞ栄 福に趨き禍辱を避くるのみ、道義的の恒心といふものがないから、その 動作云為が誠に軽薄荀且にして定まりなきものであります。

云為
(うんい)
言葉と行為

荀且
(こうしょ)
一時のまに
あわせ


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