|
耶蘇が嬰児を抱きて、天国に居る者は此の如く謙れるぞと語つたとき、
その嬰児はいかに感じたことでありませうか。たゞ耶蘇の温かき手に頭
顱を撫でられて、何とも言へぬ好い心持ちになつたばかりでありませう。
仮りにペテロが耶蘇から同一褒称の辞を受けたとしたら何うでありませ
う。吾こそはといふ慢心を起して、多少とも他の弟子等を眼下に見下す
様な失態に陥ることは無いでせうか。それはつまりペテロの心が未だ空
たかぶ
虚に帰せざるが為めであります。褒められても傲ることを知らぬ嬰児は
また、謗られましても憤らぬでありませう。その謙虚無心なる嬰児のさ
まは、私共が大虚に帰する活きた模範なのであります。
ですから帰大虚の工夫は、世上紛々たる毀誉褒貶に対して無関心たる
より初めることが出来ると思ひます。私共の旧我が最も愛好するところ
のものは名利の二つであります。そこで褒誉に遇ひて喜びを成さず、毀
貶に接して平心たること嬰児の如くなりましたならば、それは名聞の私
慾から自由になつたので、その空虚清明の心から、世上の毀誉如何に拘
(ママ)
はらず、善を行ひて憶せず、正義を履みて怖れざる良知自然の実行が出
来る訳であります。
名聞に次いで私共の虚心を満たし良知をくもらすものは、財利の慾念
でありますが、嬰児の心はまた、財利に対して極めて無心なるものであ
ります。それが百万長者の嗣子でありませうと、貧人の忰でありませう
と、等しく母の乳に満足して、敢て他に求むるところのない嬰児が、少
慾知足のさまは、実に天国の人の如くであります。聖人は嬰児の心を失
はずで、大舜の如く、天下四海の富を我有と致しましても「不与」とい
ふのが正にそれであります。
要するに帰大虚を志す者が、嬰児に学ぶべき点は、名利に対して淡泊
無心なるところであります。謙虚と申しましても名利の二つを意に介せ
ず、之に累はされざることより外のものでないと私は考へるのでありま
す。
|
謙(へりくだ)れる
頭顱
(とうろ)
頭部
ペテロ
イエスの十二
使徒の筆頭
褒称
(ほうしょう)
称賛
謗(そし)られ
|