Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.9.16

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎空虚の哲理』

その24

高田集蔵

立正屋書房 1925

◇禁転載◇

三、宗教的修練
 (其二)(3)
管理人註
   

 そこで謙卦の密意は、高山が努めて低地の下に屈するといふのではな く、山の隠れて見えざるその常住の根基を信じて敢てその地上に現はれ たる仮象の部分を恃まぬといふに存すと解します。前に名利の二字を説 きましたが「名利の大山」と申しまして、名利は世に現はれたる山の高 き姿であります。名利それ自らは決して悪しきものではありませんけれ ども、之は誇るに足らず、恃むべからざるものであります。否之を誇り 之を恃み、之を慕ひ貪るところよりして、一切の罪悪禍害が生じるので あります。故に心大虚に帰せんことを志す君子は、須く名利二つの仮象 に過ぎずして、執着すべきものでないことを謙卦に学んで、彼の英雄の 大なるよりして、嬰児の小に至るまで、苟も人とあらん程の者、聖凡善 悪賢不肖を通じて、何人も具有してゐる良知の、大に致すべきものある、 心の隠れたる根基を信じて、そこに安心立命の大地盤、既に確立されあ るを見出だすことであります。  空虚の義に唯物的と唯心的との両義存することは一寸前に述べました が、唯心的の空虚にまた消極と積極の二用あることを知らねばなりませ ん。名利の妄念を断つが如きは空虚の消極的作用でありまして、名利か ら超絶した一心の空虚自らにして良知が働き、仁義礼智の四徳を生成す るは、その積極的作用なのであります。同じく是れ空虚と申しましても、 この活きた道徳を生成せざる如き槁寂の死空をば、中斎学に於ては、老 仏末輩の陥つた悪竇として、大に之を忌むのであります。蓋し中斎先生 の多血多涙なる、その中より孝弟忠信や喜怒哀楽や、斉家治国平天下の 活理想、活生命が生出して来ないやうな死せる空虚に安んずるに、あま りに人間味に豊かであつたのであります。  大虚空虚の説は、易や老子を初め、周濂溪二程子より張横渠に至り、 之を提唱して真理の蘊を発いた人は、中斎先生已前、既にその人に乏し からず、学説上からは、先生亦それら前賢に負ふところ少なくないのは 勿論であります。現に剳記の文章各條殆んど典拠があつて、所謂述べて 作らざるもの、勿論全く独創的とは云へませぬが、それにも拘はらず、 それが単なる祖述や踏襲でなく、先生自ら良知を致された体験の成果と して、凛乎として斬れば鮮血の迸るべき活文字を凝成してゐるところに、 新生命の輝きが拝せられるのであります。

悪竇
(あくとう)

周濂溪
(しゅうれんけい)
周敦頤
北宋の思想家

二程子
程(明道)
程頤(伊川)
兄弟

張横渠
張載
北宋の思想家


(うん)

祖述
(そじゅつ)
先人の説を受
け継いで述べ
ること

凛乎
(りんこ)
りりしく勇ま
しいさま

(ほとばし)る


『大塩中斎空虚の哲理』目次/その23/その25

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