さて去虚偽を通俗の言葉に翻すならば、神道の六根清浄の義、また基
督教のバプテスマに当るものと私は解するのであります。先づ六根とは
眼耳鼻舌身意の六根、形心共に本来空虚なるものであつて、苟も人の見
るところ、聞くところ、嗅くところ、味ふところ、聖人たると常人たる
とによつて異なるところはないのであります。白は白、黒は黒、馬は馬、
鹿は鹿、是は是非は非、その感覚、知覚、乃至判断に二あるべからざる
ものであります。しかし老子は斯んなことを曰つて居ります。
守 真
人よ
色彩の美、いかにわれらが視覚を惑はすかを知れりや
音楽の調、いかにわれらが聴覚を乱るかを知れりや
美食の味、いかにわれらが味覚を損ずるかを知れりや
また
比武と狩猟とが、いかにわれらの心を熱狂せしめ
黄金崇拝が、しかにわれらの徳行を傷くるかを知れりや
蓋し官能の満足に耽る者は霊能を失ひ
勢利と虚栄を趁ふ者は
人心内部の真意を失ふなり
聖人は内部を修めて外辺に馳せず
物を以て自ら養ふも
終に物の為めに役せられず
能く彩色の誘惑を退けて
常に心神の虚静を保つなり
妄見顛倒
滔々たる世俗、こぞりて
め
「美」とし愛づるところのもの
多くは是れ醜なるのみ
滔々たる世俗、こぞりて
「善」とし誉むるところのもの
多くは是れ悪なるのみ
かく、衆生の見は顛倒せり。
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