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箚記中、読書訓とも云ふべき條が到処に点出して居ります。聖賢の書
を読むにも、虚心にして之に対するのでなければ、その真意の了得し難
きことが警戒されて居るのであります。又読書して而して後に良知を致
すべきかとの或問に対して、読書即致良知と応へられて居ります。要す
るに中斎学は徹頭徹尾空虚学でありまして、その入門、既に嬰児謙虚の
孝心を条件とする如く、修練体験の歩々悉く一心の清虚、意必固我なき
を肝要とするものであります。是れ甚だ困難の業であつて、同時にまた
頗る容易の事なのであります。困難は私共本来空虚たる先天的理体を疑
ふより来るのでありまして、容易は浅間しくも後天的気質に塞がれて、
空虚を失つてゐる凡心俗知悪見を否定するより生ずるのであります。そ
こで私は五綱領中の最後たる去虚偽を以て太虚体験の第一階梯と致しま
す。次に一死生、次に変化気質、次に致良知と逆に修練の方法を見て行
くのでありますが、この四者は、恰も太虚の至聖所に達する東西南北の
四門に喩ふべきものでありまして、学人機根性質の異なるに随ひ、何れ
の門から進入してもよいやうに私は考へるのであります。且つ又その一
に徹したならば、他は自ら全うせられるので、素より先後内外を定める
ことは出来ません。たゞ「中人已下、旡始の妄縁がその血肉の間に出
して居らぬ者は極めて鮮い」から、去虚偽より着手するのを普通とする
のであります。しかし凡庸怯惰の人は、一死生から入り、客気勝心者が
変化気質より進むが如きは、正に病患に応じて起死回生の霊薬を服する
ものと謂つてよいと存じます。
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『洗心洞箚記』
その166
一四
意必固我
主観的な恣意
無理おし
固執
自己中心の考え
井上哲次郎
「大塩中斎」
その21
『洗心洞箚記』(抄)
その14
旡(む)
無の意
出
(ざんしゅつ)
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