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これら奇矯の語を放つた老子は、たしかに普通常人の見て居らぬ一段
と深い世界を見て居たやうであります。私共の肉眼は月を星よりも大き
く見たり、その月の球体を円板の如く見るほど不完全な視覚しか有ちま
せん。賢淑の貞女を美色の婦に見かへる凡人の眼識は果して正しいと
謂へませうか。世間の幾人か能く功名富貴が錦覆の陥であることを看
破して、飢凍の如く之を恐るゝ者でありませう。誰でもが陰曇の天に晴
の理を見、晴朗の空に雨の気を察することが出来ませうか。ロトの目に
は、将に天火に焼き亡ぼされんとするソドム、ゴモラの地が繁栄慕ふべ
き都と見えました。耶蘇が壊滅を預知して為めに泣いたエルサレムの神
殿が、弟子等の目には輪奐の美、荘厳の大、天下に類ひなく頼もしきも
のと見えたのであります。況んや私共の周囲に活ける死人も居れば、死
せる生人も居ります。貧しき富者と、富める貧者、博学の愚人、無学の
智者、郷愿と狂狷と正人と偽善者と、凡眼の容易に鳥の雌雄を分ち難き
もの、いかに多きかを知らぬではありませんか。
是に至つて私共の眼根は本来空虚なるものですけれど、何らかに病翳
ありて、事物と人物との真相を見ることが出来て居らぬことが分かりま
す。是れ神の子が生瞽の両眼に泥土を塗り、シロアムの池に行きて、之
を洗はしめた所以で、私共としても去虚偽の第一着歩は洗心一番、この
肉眼にて見るところの幻象をたのまず、心眼を見開いて天地人生の真実
相を拝見する必要があるのであります。
その視るや己に由らず、天明によりて視る
その聴くや己に由らず、天聡によりて聴く
天智によりて思ふ、故に間思維慮なく
天能によりて行ふ、故に徒為妄行なし
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輪奐
(りんかん)
建築物が広大で
りっぱなこと
郷愿
(きょうげん)
道徳家を装って
郷里の好評を得
ようとする俗物
狂狷
(きょうけん)
いちずに理想に
走り自分の意思
をまげないこと
病翳
(びょうえい)
生瞽
(せいこ)
シロアムの池
『新約聖書』に
登場する池
キリストが生ま
れつきの盲人を
癒す奇跡を行っ
たとされる
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