|
陽明が天成篇に於て説くところ、老子のこれらの言葉にヒントを受け
たのではありますまいか。西方丁抹はアンデルゼンのお伽噺中、空無の
衣をきて白昼都大路を得々として練りあるいた王様の裸体は、ひとり虚
心なる幼童の一喝によつて明かにされましたが、東方は支那に於ける馬
鹿の由来も面白いではありませんか。
昔し趙高叛意あり、群臣の心己に帰するや否やを験する為めに、二世
に鹿を献じて是れ馬なりと言上しました。「大夫の言なりと覚えず、こ
は馬ならずや」との上意に対し、群臣中「否、馬にて候」と答ふる者と、
何とも言ひかねて黙せる者と、正しく鹿なりと憚らず弁ずる者との三種
がありました。同一の鹿を前にして、爰に三種の異言あるによりて、私
共の耳目の聡明も、権威脅迫の前、時として一向あてにならぬことが分
かるではありませんか。肉眼の見るところ正しく判断力も過つてゐない
として、猶危懼するところあり、乃至喜楽するところがあると、良知は
その光を失つて、正しく之を弁説することが出来ぬのであります。鹿を
見て馬と答へた多数の佞人、権者を憚つて何とも言ひかねてゐた優柔漢
は論外として、諤々鹿を認めて之を鹿なりと弁じた勇者と雖も、是れ一
時慷慨の気に駆られたもので、未だ正言の中を得たものでありませんか
ら、間もなく、趙高の為めに暗殺されて仕舞ひました。さて斯うした場
合に直言して能く乱臣賊子の心肝を寒からしめて、禍殃を未然に絶つ真
勇は、ひとり平常不断の致良知、心恒に虚に帰して、活気が全身に横溢
せる誠忠の人のみ能くするところであります。これには孔子陳恒を討戮
するの議を提した適例が挙げられて居ります。
以上主として眼識に関して去虚偽の大要を説きましたが、耳鼻舌の三
根に関しても同様であります。これら諸識が空虚の洗礼を受けますと、
私共は始めて能く天地人生の真実相に面接して、良知自由に働き、言行
自ら誠信たるを得るのであります。
猶身意の二識に於て虚偽を去るの義は、前来説くところの中に含まれ
て居るのですが、身根の虚に徹すれば一死生となり、意根の虚に徹すれ
ばそれは克己慎独、乃至変化気質となるのであります。
|
丁抹
(デンマーク)
空無
なにもない
こと
趙高
秦の宦官
諤々
(がくがく)
正しいと思う
ことを、はば
からずに直言
するさま
禍殃
(かおう)
わざわい
|