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全体、太虚の実在性を高調する中斎学に於ては、躯殻形骸を極めて軽
く見るのであります。生と仁と何れを取るかと云ふに、生即ち肉体的生
命の如きは、必ず滅するの時がある。しかし仁は太虚の徳にして万古不
滅のものである。万古不滅のものを捨てゝ必ず滅ふべきものに執するの
は惑なりとするのであります。そこで「引刀断耳鼻、見義不見刀」とい
ふやうに道体を以て生命とし、肉体を全然否定し去るを貴しとするので
あります。
形から言つたならば、心が身内に在ります。しかしその形に拘執する
者は、必ず物に累はされて精神の自由が得られません。
道から見たならば、身が心(太虚)内に在ります。悟つてこの道に生
きる者は、我能く物を役して超脱の妙を楽しむことが出来るのでありま
す。
私共が身体の有るを感ずるのは病気の時に限ります。眼病めば眼の有
るを感じ、足痛めば、従来行歩自在その存在を忘れてゐた足が邪魔にな
ります。故に真の健康者はその身体を有せず、真の明眼者は眼にて視ず、
真の健脚者は足にて行かずと謂ふことも出来ませう。まして苟も一法一
芸に精熟する達人に至つては、それ/\の道に於てその身を忘れて居り
ます。空也上人は「身を捨てゝこそ」と曰ひ、また「身あれば法なし」
とさへ曰はれました。一心至誠に凝定して図らず、空虚に帰するとき、
形骸に惑ひて有りと思ふてゐたこの肉身は、いつしか無くなつて居るこ
とは稀からぬところで、この意味に於て彼の隠身術なぞも素より可能な
るを信じます。
大君を思ふ心の一筋に
わか身ありとは思はざりけり
実に「身あれば法なし」であります。去虚偽も徹してこゝに至ると正
に一死生に合致するのであります。
私はこれより引き続いて、一死生、変化気質、致良知の三目に就いて、
その工夫の概要を説明致したいのですが、時も余程移りましたので、遺
憾ながら、それは他日の詳説に譲ることゝし、この概説に於ての説明は
去虚偽の一目に止めることゝ致します。
猶私自身の多少の実験に本いて帰太虚の工夫相互の関係を次の如く図
解して見ました。これは必ずしも拘泥すべきものではありません。たゞ
初学の理解を容易ならしめる為め、多少の御参考ともなれかしと念じま
して序に掲けて置くまでゞあります。
【帰太虚図 略】
【帰虚四門図 略】
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『洗心洞箚記』
その78
拘執
(こうしゅう)
とらえられる
こと。また、
とらえること
『禅林世語集』
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