Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.9.25

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎空虚の哲理』

その33

高田集蔵

立正屋書房 1925

◇禁転載◇

三、宗教的修練
 (其四)(2)
管理人註
   

 私はまた之と同一の虚心を耶蘇の自証に見るのであります。彼は  「何故我を善しといふや……」 と曰つて、自己の善を否定し、  「汝らのうち、誰か我を罪に定めん者ぞ」 と曰つて、自己の悪をも拒絶してゐます。自分は善でもなく悪でもない。       さ ば 凡て人間の審判かうとする何者でもない。自分は空虚だ、ゼロだ、nothing だと証してゐる耶蘇の心は、常に太虚に帰してゐたものと私は信ずるの であります。而して彼の視聴言動悉くその太虚自然の働きのまゝにして、 少しも私意の之を礙ぐるものゝないことは次の言葉で分かります。  「我自ら何事をも行ふにあらず、我に居るところの父なり」  「我は自らに就きて語らず、我に在る父、その業を為せるなり」  かく栄光をすべて神に帰して、断えず自己を虚うする耶蘇の精神生活 は完全なる自己否定ではありますまいか。階段的に概観致しましたとこ ろ、去虚偽に於て感覚知覚を否定し、一死生に於て肉身を否定し、変化 気質に於て悪念邪情を否定し、致良知に於て善念正情の矜持を否定した 私共は、最後に自己そのものをも否定して太虚の本体に帰しまする。爰 に至つて始めて道の大自由大神通を得るのであります。かく善として恃 むべきものなく、悪として誇るべきものなき大虚心中、知らず天地万生、 聖凡美悪、草木瓦礫に至るまでのもの悉く入り来つて、法華経に所謂 「今此三界悉吾家其中衆生悉吾子」の大慈悲心と化するを。是れぞ太虚 と合体し了せる聖人の心境でありませう。  かく聖人太虚無碍の心境は、之を仰ぎ之を説くは敢て六ケ敷いことで はありませんが、如実に之に体達することは、然かく容易なことではあ りません。一心本来の空虚を信じまして、理想上では只今即座に聖人の 気持にもなれませうが、そこに達すべき現実の歩みは、やはり一あし/\ 着実に踏みしめて行かねばならぬのであります。前の五綱領を更に約し て慎独、克己の二工夫とされてあるもの、是れ私共が太虚の理想をリア ライズすべく進む心の両脚であります。


















(さまた)ぐる




































体達
身をもって物
事の理を究め
尽くすこと


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