Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.9.26

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎空虚の哲理』

その34

高田集蔵

立正屋書房 1925

◇禁転載◇

三、宗教的修練
 (其四)(3)
管理人註
   

 慎独は易の精神であり、克己は礼の本質であります。所謂「己に克つ て礼に復る」といふのは、さすが聖人の穏かな語法でありまして、穿つ て申しますと、礼の美果は己を殺す心の根から結ばれるのであります。 人慾の私を殺して天理の公に従ふことが慎独であり、礼といふも之れが 実現に外ありません。故に易の三百八十四爻は礼であり、礼の三百三千 は易の用であると申します。易の理は円かにして平等的、礼の行は方に して差別的であります。二者畢竟するところ帰太虚の両面でありまして、 能く克己に徹すれば、そのまゝ慎独となり、能く慎独し了すれば、また そのまゝ克己たるは申すまでもなきことであります。  この慎独克己の二工夫は、単に己心を正し己身を修める為めにのみそ の用あるのではなく、天(宇宙)と人(生人)と自己の心と、本来並に 空虚なるものでありまして、その内外空虚の透徹融合する為めに、私共 は大に克己し、深く慎独して、太虚と同体たる聖人の域に達するを以て 至極とすべきことであります。そこで中斎学に於ては、  一、事々物々に対して格物致知し、以て空虚なる心の体に帰して障碍   なきを証すること。  一、それはまた日用応酬の間、間断なき工夫たる事。  一、いかなる小事にも躓くことのなきやう周到綿密であるべき事。  一、外界の善悪をば吾が心中の出来事として、責任を感じ、善を為し   悪を去ること窮りなく、斃れて而して後已むべき事。 を学問の精神と致します。これら各條に就いて私一個の実験からもつと 詳しく述べたいのですが、今はたゞ道学の窮極なき所以を図し、茲に謹 んで諸君が日々の御参究いよ/\精徹ならんことを祈ります。

(こう)































斃(たお)れて
後已む
礼記










『大塩中斎空虚の哲理』目次/その33/その35

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