Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.9.27

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩中斎空虚の哲理』

その35

高田集蔵

立正屋書房 1925

◇禁転載◇

三、宗教的修練
 (其四)(4)
管理人註
   

 【道学無窮図 略】  道は大虚にして無窮なるが如く、道と合一せんとする私共の学も亦此 の如く無窮なるものであります。  この太虚無窮の願が、実に中斎学の祖たる大塩先生の生命でありまし た。この願からして、所謂学んで厭はず、人を誨へて倦まざる大精力が 生まれたのであります。この願からして已むに已まれぬ忠胆義胆、世俗 の毀誉褒貶を無視して、能くその仁義と信ずるところのものゝ為めに一 身を殉ずる獅子奮迅三昧があつたのであります。此の願は実に終古に朽 つることなき生人の意思、烈火に焼け爛れ、塩漬けとなつて白日に曝さ れたと伝へらるゝその肉身と共に滅ぶることなく、苟も先生の名を聞き、 その書を読むほどの者の心に感電して、全く人世を潔め、斯民を救ひ了 するまでは、幾多の懦夫をして代る/゛\奮起せしめて已むところを知 らぬでありませう。蓋し地上に春夏秋冬の循環交代あらんかぎり、古今 東西の志士仁人が、その虚心内に実証した仁義礼智の四徳は、四季自然 の気に運ばれて永久に滅するものでなく、いつか何処かで必ずその志を 遂げずば已まぬものであると云ふ、是れ中斎学の霊魂不滅観であります。  終りに太虚の気象は如何と申しまするに、天の太虚は浅みどり、澄み 渡りたる大空の広くして彊りなきを仰いで見るがよろしい。人の太虚に 至つては、未だ其の人に会はぬが、試に古人の語を以てすれば「以能問 於不能、以多問於寡、有若無、実若虚、犯而不校」といふが如きであら うと曰はれてあります。又呂新吾の呻吟語から「利を見ては肯て進まず、 害を見ては肯で退かず、功は人に帰し、過は己に受く」といふ名句が引 かれてあります。  それに論語にある孔門の四弟子が各々其の志を言つたとき、他の子路、 冉有、公西華の言によると、それ/゛\に心上多少の丹青を見るが、暮 春者春服成云々と応へた曾晢に至つては、未だ体達して居らぬにしても、 夙に聖人心体の虚を窺ひ得たるその見識気象の頗る高きものがあります。 君子器ならずで、職業的に性格が固定して、それ以外の心地に通ずる虚 心の自由が失はれることは、修道上の大障碍であると云はねばなりませ ん。聖人の心はさながら明鏡のくもりなきに似て、胡来れば胡現じ、漢 来れば漢現じ、大小妍、何一つ照さぬといふものはありません。しか しその物去るや、本来一団の虚明、いさゝか染着するところが無いので あります。かうした風光は最も顔回に於て見るべく、孔子の常空に対し て屡空と称された所以であります。中斎先生は、曾子の志に兼ぬるに三 弟子の器用を以てしたならば、一偏に陥るの害を免かれるであらうと申 されて居ります。とにかく前出呂新吾等の語と、曾晢のかうした風懐を 参酌玩味致しましたならば、心太虚に帰した人の気象が彷彿されて来る だらうかと存じます。















(おし)へ






生人
(せいじん)
人間




懦夫
(だふ)
意気地のない男














「論語」泰伯第八
曾子の言


(あえ)て





冉有
(ぜんゆう)
孔門十哲の
一人
曾晢
(そうてつ)
孔子の弟子
曾子の父

『洗心洞箚記』
その141


(こ)
中国人が北方、
西方の異民族
をよんだ語


(けんし)






風懐
(ふうかい)
風流な心


『大塩中斎空虚の哲理』目次/その34/その36

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