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既に科学的考察によつて略々天地自然と人生一切活動(本講には簡単を
旨として、ひとり人体生理に就きてのみ略説したのですが、人間生活の
あらゆる現象、一として空虚を中心として活動して居らぬものはありま
せん。附録にした旧作二篇は、私自らの言と行とに於ける空虚のおのづ
からなる応用が聊か記されたものであります。)の機密は空虚であるこ
とを学びましたが、私共が単にそれだけの智識に慊らずして、更に哲学
的思索の道に進まうとするのは、科学の究明するところは、何と云つて
も現象、作用に関する説明に過ぎぬものであります。而も現象なるもの
は動的にして絶えず変化して已むものでありません。変化して已まざる
ものに就いて、何れほど広く且深い考察を遂げましても、その究極の意
義は分かるものでありますまい。そこで何うしても、その現象の背後に
本体が潜んで居らねばならぬと考へ、何うかしてその本体を観念して之
が実理を究めようとする私共の努力が、余儀なくこの哲学的思索の門を
叩かしめるのであります。
さて宇宙の本体を古聖は何ういふ風に観念したかと申すに、前章の終
りに一寸引照したところによつて明かなる如く老子は之を道と名づけ、
又それを玄牝とか谷神とか呼んで、女性的空虚のものと観たのでありま
す。私が之を自然論の代表として撰びましたのは、老子が能くも自然
(Nature)なるものゝ消極的精神を観照してゐるからであります。西洋
の或る詩人も、自然は猶ヴエールの如きものであつて、実体なる神は自
然の奥がに微笑んでゐる。而も透明なるヴヱ−るに喩へられた自然は、
神の微笑みを少しも隠蔽せずして、いみじく之を顕現してゐる。即ち月
や花や山川の美麗は、そのまゝにして神の微笑みであるとする。神は微
笑むばかりでなく、時として怒り、時として哀しむが、私共はまた自然
の轟雷閃電や凄風陰雨を通じてその厳粛なる聖顔を拝むことが出来る。
啻にそればかりでなく、神は驚くべき権能と智慧と栄光を有つてゐるが、
自然はまたそれを覆はず、露堂々として表現してゐると考へましたのは、
老子の道の諦観に似通つたところがあると思ひます。かく宇宙の内在的
心霊、即ち神なる実体をありのまゝに表現して隠すところなき自然の心
は、実に空虚なるものあであります。無私なるものであります。この心
の空虚無私は女性的であつて、能く一切を容れ、一切を育て、一切の動
いて、やがて静まるを待つものゝ様であります。老子の所謂道は、実に
此の如きものであつて、又かうした意味の自然論の著しい代表ではあり
ますまいか。
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慊(あきた)らず
玄牝
(げんびん)
谷神
(こくしん)
谷または低湿地
をつかさどる神
老子第六章に
「谷神不死、
是謂玄牝」
とある
轟雷
(ごうらい)
大きな音で
鳴り響く雷
閃電
(せんでん)
ひらめく
いなずま
啻
(ただ)
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