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易となると老子の自然論に対して正に本体論であります。御承知の通
り、易では宇宙の本体を太極と立てます。その太極が分かれて両儀を生
ずるものが陰と陽、進んでは乾と坤であります。それで老子の道とする
ところは易の半ばで、即ち主として坤陰の道であります。易には更に乾
陽の半ばがあつて、消極的の自然に、実体の積極的を兼ね、その陰陽消
長の間に中庸の正理を玩索するのであります。是れ中斎先生が、老子と
同じく道の本体を空虚なりと味つて居られつゝ、老子を採らずして易を
択ばれた所以でありますまいか。
老子が徹始徹終、自然の道を信じて之を体得した姿は実にやさしくも
亦美しいと謂はねばなりません。これは体験上の話しになりますが、孔
子の温良恭謙譲は老子の謙虚柔弱に彷彿したものであります。しかしそ
れは体現の女性的一面に過ぎずして、孔子の時中には発強剛毅と云つた
男性的方面のあることを中斎先生は注意してゐられます。私が曾て老子
の道の化身として寧ろ耶蘇を擬し易の理想の体現者として孔子の採つた
のも、亦同一の見解に出づるものであります。
話が一躍して自然論、本体論に入りまして、最初の空間論を逸しまし
た為めに、何となく前に科学的に考察したところの空虚と、自然の有す
る心の空虚との間に踰え難き溝渠の存する如き感を禁ずることが出来ぬ
のでありませう。空間論は正にその中間に位置して、その溝渠を埋むべ
き筈のものであります。
空間論の空間は読んで字の如く、空間即ちスペースであります。その
物質的なる一面は科学的考察門の空虚と握手し、而も同時に超物質的な
る一面が哲学的思索門の内扉を成してゐるのであります。私が中斎学
(中斎先生の思想学説を仮りに中斎学と呼ぶことに致します。)を以て
空間論のところに位置せしめましたのは、中斎先生の思想が極めて高遠
なる唯心観であるに拘はらず、それが堅実なる唯物観の基礎上に立脚し
て、能くその中を得てゐるのを喜ぶが為めでございます。而も空間論と
云ひ、自然論と云ひ、本体論と云ふの三科、由来孑然として孤立したも
のでなく、相互に関連し捕足し合はねばならぬ性質のものであることを
忘れてはなりません。
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玩索
(がんさく)
いろいろ研究
してその真意
をさぐること
踰(こ)え
溝渠
(こうきょ)
気持ちのへだ
たり
孑然
(けつぜん)
孤立してい
るさま
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