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さて中斎先生は空間をいかに見られましたか?中斎学の研究はこの一
問によつて正にその序幕が切り落されるのであります。今洗心洞剳記を
繙きますると、劈頭第一に掲げられた霊活の大文字、爛々として私共の
瞎眼を照破するものは実に次の如きであります。
『天不 特在 上蒼々大虚已 也。雖 石間虚竹中虚 亦天也。況老子所
云谷神乎、谷神者人心也。故人心之妙与 天同、於 聖人 可験矣。常
人則失 虚。焉足 語 之哉』
之れによつて見ますると、中斎先生は空間を直ちに天と呼び、之を空
虚(太虚)なりと解せられてゐるやうです。普通空間と云へば、そこに
空気とかイーサーとかゞ充満してゐて、猶物質的の感を免かれませぬ、
少なくても形而下のものでありますが、しかし之を大虚と云ひ、聖人の
心と同一のものであるとして見れば、それは既に形而上のもので、空間
を超越した心霊の義となるのであります。中斎学の天(太虚)にこの両
面を有つてゐるところが、やはり老子の思想に一致して居ると思ひます。
道は無名
人の挙し得べき道
そは永遠の「道」にあらず
人の命じ得べき名
そは常住の名にあらず
故に
しばらく「道」の体を「無名」と名けむ
これ霊元なり、天地の始なり
「道」より出づるの用
しばらく之を「有名」と名けむ
これ物元なり、万物の母なり
この二元観を異にせれど
その根源は唯一なり
おの/\一個の神秘にして
その根元(即ち道)ぞ神秘の神秘
一切霊妙なるものゝ
由りて出づるの門なる
道 体
万有は「有」に生ず、物元これなり
物元は「無」より生ず、霊元これなり
この霊元ぞ、「道」の体なる
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繙(ひもと)き
劈頭
(へきとう)
最初、冒頭
瞎眼
(かつがん)
盲目
『洗心洞箚記』
その2
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