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近頃『川路聖謨文書』第八に収録されてゐる「川路聖謨遺書」を読んでゐると.
左の一節に出会した。
ママ
一 わか甲冑下着を坂本弦之助に為記候は、同人徒治世に在て、反賊を破り、
武功を以て御取立になり、目出度人なれば也、守約の二字は弦之助存附たれ
と、孟三舍の勇わが可望にあらずと申たるに、弦之助答に塩賊誅伐の節、天
満橋をわたる時は、弦之助壱人と成とても、平日には不似、誰かれ裁と怨み
心なりけるが、今日死するは我一人の忠義をつくせば事足を、人の事をこれ
かれとおもふべからずとおもひたれば、忽こゝろすが/\としてすゝみ行た
り、守約の二字は実験の事なれば、記すと申たれば天にまかせ候、弦之助心
得方尤也、子孫よく弦之助が記たるに不愧様心がくべし、
此の文中にある坂本弦之助とは云ふまでもなく、幕末大阪に於ける玉造組同心支
配役で、大塩乱は殊功のあつた坂本鉉之助、諱俊貞、字叔幹、号鼎斎のことであ
る。
川路聖謨が、大阪町奉行の命を奉じたのは、嘉永四年六月のことで、翌五年八
月までその任にあつたから、坂本鉉之助との交際も、その間に生じたのであらう。
此の川路の遺書の一節に依つて見ても、坂本が如何なる人物であつたかゞ想見さ
れると思ふ。
坂本鉉之助は、信州高遠藩主内藤侯の家臣で、天山流砲術の開祖として有名な
坂本天山の第四子で、大阪に出でその宗家を継いだのであるが、その職掌こそ玉
造組同心支配役に止まり、僅かに大塩乱の功労に依つて、旗本格に列せられ、銭
砲方に登用されたのに過ぎぬのであるが、学問武芸共に秀で、特にその見識に於
ては、当年大阪の人物としては、第一流と云つてよい人であつた。
吉田松陰の如きも嘉永六年二月、大阪に滞在中、桃谷の邸に坂本を訪問し、そ
の学力並に西洋砲術に対する態度に感服し、家兄に寄せた書牘中に於て、「鼎斎
ボンベカノン
歳五十許、諄々善譚、其近著暴母迦農説評題ヲ出シ示ス。甚ヨシ、和流砲術ニハ
学力彼是珍敷人物卜奉存候」云々と称揚してゐる。
坂本の大塩乱に関する手稿「咬菜秘記」は、現に写本が一冊帝国図書館に蔵せ
られ、別に故安藤太郎氏蔵のものが、往年『旧幕府』誌上に連載せられたが、多
少の誤膠はあるものゝ、当時の関係者として、その事実見聞を直言直写した点に
於て、大塩乱の史料として、最も信慂すべきものであるのみならず、書中を通じ
て坂本の傑出した人物識見も窮はれる。尠くとも彼の大塩乱に対する態度措置は、
東町奉行跡部良弼などの到底及ぶところでは無かつた。
坂本の墓は、高津中寺町大倫寺にある。私は最近市内の某書肆から、その碑文
の拓本を手に入れたので、近く簡素な表装して、書楼の壁間に掲げたいと思つて
ゐる。坂本に就ては、何れ他日その詳伝を発表する考であるが、幕末大阪の人物
として、先づ此れだけの事を記して置く。(昭和十一年八月廿七日)
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有働賢造
「川路聖謨と大阪」
「咬菜秘記」
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