Я[大塩の乱 資料館]Я
2018.4.15

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


「幕末大阪の人物坂本鉉之助」

高梨光司(1893〜1962)

『上方 第69号 上方自慢号』上方郷土研究会編 創元社 1936.9 所収

◇禁転載◇

 管理人註
  

 近頃『川路聖謨文書』第八に収録されてゐる「川路聖謨遺書」を読んでゐると. 左の一節に出会した。              ママ   一 わか甲冑下着を坂本弦之助に為記候は、同人徒治世に在て、反賊を破り、   武功を以て御取立になり、目出度人なれば也、守約の二字は弦之助存附たれ   と、孟三舍の勇わが可望にあらずと申たるに、弦之助答に塩賊誅伐の節、天   満橋をわたる時は、弦之助壱人と成とても、平日には不似、誰かれ裁と怨み   心なりけるが、今日死するは我一人の忠義をつくせば事足を、人の事をこれ   かれとおもふべからずとおもひたれば、忽こゝろすが/\としてすゝみ行た   り、守約の二字は実験の事なれば、記すと申たれば天にまかせ候、弦之助心   得方尤也、子孫よく弦之助が記たるに不愧様心がくべし、 此の文中にある坂本弦之助とは云ふまでもなく、幕末大阪に於ける玉造組同心支 配役で、大塩乱は殊功のあつた坂本鉉之助、諱俊貞、字叔幹、号鼎斎のことであ る。  川路聖謨が、大阪町奉行の命を奉じたのは、嘉永四年六月のことで、翌五年八 月までその任にあつたから、坂本鉉之助との交際も、その間に生じたのであらう。 此の川路の遺書の一節に依つて見ても、坂本が如何なる人物であつたかゞ想見さ れると思ふ。  坂本鉉之助は、信州高遠藩主内藤侯の家臣で、天山流砲術の開祖として有名な 坂本天山の第四子で、大阪に出でその宗家を継いだのであるが、その職掌こそ玉 造組同心支配役に止まり、僅かに大塩乱の功労に依つて、旗本格に列せられ、銭 砲方に登用されたのに過ぎぬのであるが、学問武芸共に秀で、特にその見識に於 ては、当年大阪の人物としては、第一流と云つてよい人であつた。  吉田松陰の如きも嘉永六年二月、大阪に滞在中、桃谷の邸に坂本を訪問し、そ の学力並に西洋砲術に対する態度に感服し、家兄に寄せた書牘中に於て、「鼎斎              ボンベカノン 歳五十許、諄々善譚、其近著暴母迦農説評題ヲ出シ示ス。甚ヨシ、和流砲術ニハ 学力彼是珍敷人物卜奉存候」云々と称揚してゐる。  坂本の大塩乱に関する手稿「咬菜秘記」は、現に写本が一冊帝国図書館に蔵せ られ、別に故安藤太郎氏蔵のものが、往年『旧幕府』誌上に連載せられたが、多 少の誤膠はあるものゝ、当時の関係者として、その事実見聞を直言直写した点に 於て、大塩乱の史料として、最も信慂すべきものであるのみならず、書中を通じ て坂本の傑出した人物識見も窮はれる。尠くとも彼の大塩乱に対する態度措置は、 東町奉行跡部良弼などの到底及ぶところでは無かつた。  坂本の墓は、高津中寺町大倫寺にある。私は最近市内の某書肆から、その碑文 の拓本を手に入れたので、近く簡素な表装して、書楼の壁間に掲げたいと思つて ゐる。坂本に就ては、何れ他日その詳伝を発表する考であるが、幕末大阪の人物 として、先づ此れだけの事を記して置く。(昭和十一年八月廿七日)


一部読点を追加
しています



有働賢造
「川路聖謨と大阪」
























































「咬菜秘記
 


「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ