Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.5.27

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩騒動と天保改革」

その1

高須梅渓(1880-1948)

『国民の日本史 第11編 江戸時代爛熟期』早稲田大学出版部 1922 所収

◇禁転載◇

第十九章 大塩騒動と天保改革
  第一節 大塩平八郎の人物と其周囲(1)
管理人註


幕府衰亡の
前兆















幕府の権威
墜つ

 幕府の衰亡は綱吉時代に、既に財政上に其の端緒を発して居た。若し 幕府が弾力の相当に利く時代に政権を朝廷に返上することゝしたら、田 沼時代を選ばなければならなかつたらう。だが、幕府はゆくところまで ゆかねばならなかつた。而して家斉の時に頂点に達して、それから後は どうしても降り坂となるべき必然的運命にあつた。換言すれば、衰亡の 徴候が最早十分に見えて居た。それを警告するかのやうに大塩騒動が衰 亡の先声として爆発した。  蓋し大塩騒動は単なる地方の一小暴動として起つて失敗したけれども、 其持つ意味は幕府に取つて極めて重大であつた。それは、幕府の内部に 於ける欠陥や弱点が既に一部有力な大名に看破されてたからだつた。薩 摩藩、鍋島藩の如きがそれだ。薩摩藩は琉球を通じて密貿易を営んで居 たことが、享保三年に幕府の看破するところとなつたけれども、平然と して曖昧の言語を弄して、幕府の云ふところを聞かなかつた。また鍋島 藩では、家斉の第二子である一橋斉位の家臣が、川崎の本陣にかけてあ つた鍋島藩の宿札を踏み倒したのを怒つて、幕府から貰つた松平の姓を 返還すると云ひ出した。のみならず、其後も、幕府の徴発した臨時税を 遷延して、十箇年賦にする要求を持ち出した。それらは、畢竟、幕府の 内部的欠陥を意識して居た結果だった。        天保饑饉    天保七年の飢饉は、四年のそれにもまして惨状を極めた。四年   の米価は江戸に於いて一升百六十七文であつたが、七年には大阪   に於いて一升二百文に上つた。しかも政府の救済は緩慢で、多数   の窮民は餓死するより外、道がなかつた。其時の東町奉行は跡部   山城守といふ凡庸の人で、かうした変に処する民政的手腕に欠け   てゐたので、民衆は遂に激昂して一揆を起した。陽明学の知行合   一の精神に共鳴し、「志士仁人は生を捨てゝ仁を取る」といつて、   大塩平八郎が兵を挙げたのは此時であつた。富豪が多くの財産を   擁して、窮民の困危を救はうとしなかつたことが、慈仁な彼れの   頭脳に不快に映じ、遂にかうした直接行動に出たのであつた。    図は渡辺崋山の作である。天保七八年の饑饉に、彼れは京都の   三條河原に救小屋を設けて流民を救恤したが、これは其有様を写   生したものである。餓鬼のやうな子供が、餓鬼のやうな母親の乳   を求めてゐるところは、一見、人をして涙ぐましめる。    

 

「大塩騒動と天保改革」(抄) 目次/その2

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