かうした時――幕府の財政難、政治的腐敗、旗本の堕落などが重なつ
て居る時に、陽明学者大塩平八郎が、眇たる一与力出の身を以て、幕府
の頭上に先づ一大鉄槌を加へた。彼れは実行家と云ふよりは、寧ろ理想
家で、民衆的な役人で、峻直潔癖、剛情な癇癪持ちで、又学者として矜
持するところの高い人だつた。彼れの家は代々与力を勤めたので、彼れ
も二十六歳の時家督を継いだ。彼れの両親は早く死んだ為め、彼れは祖
父の手で養はれた。彼れの学問は、主として独学自修の上に築き上げら
れた。東都遊学のことは虚説である。また大阪で中井竹山の奠陰社に通
学したと云ふこともしつかりわからぬが、此方は事実に近いやうだ。
平八郎は、身長五尺五六寸あつて、少し痩せて居たけれども、風采堂々
として、何となく大藩の家老位にし思はせるところがあつた。顔色は白
くて、眼が細く少し釣つて居て、凛としたところがあつた。弁舌は極め
て爽かで、どこか鋭さを帯びて居た。彼れは早くから肺疾に罹つて、始
終それに苦められて居たが、後にはそれが固まつてどうにかかうにか健
康を維持することが出来た。孤児、肺疾の人、自助の人、それが青年時
代の平八郎だつた。
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