Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.6.7

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩騒動と天保改革」

その12

高須梅渓(1880-1948)

『国民の日本史 第11編 江戸時代爛熟期』早稲田大学出版部 1922 所収

◇禁転載◇

第十九章 大塩騒動と天保改革
  第三節 蛮社の獄と水野忠邦(3)
管理人註

忠邦の痛快
なる改革



















矯風的態度
の厳酷






















問屋組合制
度の廃止




















江戸末期の
文化

 天保九年秋の頃であるが、当時、イギリスの船が来航すると云ふ噂が  其後、天保十二年に家斉が歿すると、家慶の信用の下に忠邦が幕閣の           (註二) 主班として、其辛辣な改革に着手し始めた。彼れの遣り方は、疾風の如 く、迅雷の如く、一世の耳目を聳動したけれども、結局、其行ふところ は、享保、寛政の革風的一面を拡張してそれに苛竦味を加へたものに過 ぎなかつた。彼れが将軍の近臣中の不正分子を一排し、閨閥政治の主動 者と目すべきおみよの方を大奥に押込み、忠成の同臭味の徒として指弾 されて居た林肥後守(忠英)、水野美濃守(忠篤)、美濃部筑前守(茂 育)らを斥けたのは確かに痛快がられた。  けれども、彼れが民衆生活の向上を理解しないで、漫然として市中売 買の食品、器物、などの高価のものを禁じ、衣食、道具、装飾品につい ての奢侈を禁じ、贅沢な上等品を供給した呉服屋、小間物屋、下駄屋、 玩具屋などを叱り付け、女髪結や娘太夫や富興行や隠売女や好色本を禁 じ、劇場と俳優らとに向つて厳酷な取締りを加へるに及んで、市民は寧 ろ眉をひそめて不快な顔付をした。何となれば、忠邦は市民生活から快 楽のすべてを奪つて、それに対する代償として神道の講釈や軍談や心学 道話などを以てしたに過ぎなかつたからだ。而して地方に於ても、忠邦 の遣り方を真似たところは、民衆の反感を挑発するばかりだつた。畢竟、 かうしたことは、余程の手加減を要したのである。  唯々彼れが断行した中で、正当に近かつたのは、問屋組合制度の廃止 であつた。勿論、それには、買占其他の弊害があつて、当然解散せしめ て自由競争を許すべきであつた。だが、これも問屋側やそれに附属して 生活した多数町人の勘定を害した。殊に彼れが、大名、旗本の領地なぞ を入れ換へて、幕府の直轄地を江戸、大阪附近に集めようとしたことは、 入れ換へを命ぜられんとする大名らの激憤を惹起して、茲に水野排斥熱 を沸騰させた。水野忠邦の政治的失脚は、以上のやうなことが重なり合 つた結果にほかならぬのである。其後、彼れは、弘化元年に再び起用さ れたけれども、何等の為すこともなくして終つた。  忠邦の後には、土井大炊頭(利位)や、阿部豊後守(正弘)らが執政 として活動したが、それらのことは後の時代に詳叙さるべきである。江 戸末期に於ける文化についても一言したいのであるが、こゝでは単にそ れが概してデカダンの傾向を有して、文芸や世相の上に著しく頽唐の色 が現はれてゐたことを指摘するに止めて置きたい。また官能の鋭敏が加 はつて、強い、あくどい刺戟を求めなければやまない傾向が一般にはび                          (註三) こつて居たことを云つて置きたい。それらの特殊色彩が劇的方向に著し く現はれて居るやうである。   (註二)『浮世の有様』及び『経済大辞書』所載の文学博士     内田銀蔵氏『水野忠邦』参照。   (註三)文学博士坪内逍遥氏著『少年時に観た歌舞伎の追憶』参照。

頽唐
(たいとう)
くずれ落ち
ること















 

「大塩騒動と天保改革」(抄) 目次/その11

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ