Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.5.9

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大塩の乱関係論文集目次

高安月郊「大塩平八郎」目次


「大 塩 平 八 郎」その10

高安 月郊(1868-1944)

金港堂書籍 1902 より



◇禁転載◇

第四段 其一 六甲山

***
山の頂、一面岩石、上少しく平坦なり。一方に石の小祠(やしろ)あり。下手に上り口あり。向 山々見ゆ。曇天、大風。
  中斎岩を踏で立つ。
中斎二十二年の其昔、血気盛の若者と、茲に競ふて登りしが、思ひ出せば彼の時は、空に微塵の雲もなく、胸に微塵の思無し、吹き来る風もいと清く、四方の山々穏に、海さへ鏡に似たりしが、今は天も地も暗く、心も暗き秋の日に、此大風は天の血気か、そも浩然の気なるか、太虚の中にも怒あり、剛毅は天の大徳なり。静なるのみにては虚無となる、時あつて動けばこそ、天の威徳行はるれ。あな心地好の嵐やな。天のいづくに起りけん。胸にも起る大風は此侭に止まれんや。止むるは何者ぢや何者ぢや。
  木の葉谷より吹上る
散るわ散るわ秋の葉の、行衛は谷か海原か、脆きは民にさも似たり。石に根からむ悪草を、払はんとせば先ず散らん。これが為に止まれんや。払はずは尚枯れん。再び春に逢はざるべし。散らせ散らせ皆散らせ。
  風の音
孔子逝きて二千年、経書は今に伝はるも、斯道尚も行はれず、天下は長く春秋の世をくりかへすもどかしさ。強き者は楽みて、弱き者は苦の果はいつと望まれん。此苦を苦めば、彼の楽も楽しからず、罪なり害なり病なり。天下の病は吾病、心の病を治むるに、此身を裂くを厭はんや。正義の太刀に差別なし。何惜む何憾む何恐る。落ちよ落ちよ天の風、心の風も吹き起り、三百年の夢破り、六十州を驚かせ。積り積りて解けざりし、正義を茲に伸ばさにやならぬ。
  大風の音
  矩之丞登り来る。
矩之先生、先生
中斎宇津木か。
矩之余りの風に木陰に入り、暫く待つて居りましたが、止む気色はござりませぬ。
中斎いかでたやすく止むべきか。
矩之それでは興もござりませぬ、早う下山致しませう。
中斎止まねばこそ興も多いわ。
矩之そりやまた何故。
中斎あれ見よ浪華は蜂の巣か、蟻の穴より小さきに、此風一たび落しなば、前の海にも散り行かん。
矩之しかしこれにて野は荒され、一汐不作でござりませう。
中斎イヤなに宇津木、御身は多き門人の中にもわけて頼もしく、股肱の思をなし居れば、けふの登山も唯一人、御身のみ伴ふたり。
矩之拙者も遠く御名を慕ひ、君父の暇乞受けて、従ひ学ぶ此年頃、常の師とは思ひませぬ。
中斎さては御身に聞く事あり。
矩之拙者も密に伺ひたし。
中斎なに御身も聞きたいとは?
矩之先づ先生よりお聞かせ下され。
中斎然らば我より云ひ出さん。此山は摂津にて第一の嶮山なり。茲に籠らば楠の千早とは如何であらう。
矩之要害は劣りませぬが、勝負は兵にござりませう。
中斎楠とて数千人、敵は六十余州の武士。
矩之しかし戴く大君あり。
中斎茲にも民を従へなば、
矩之民とは町人百姓ならば何の力になりませうや。
中斎力も無く光も無く、何のすべも知らずとも、其為に起りなば、喜はいかばかり。
矩之しかしかの楠もかしこの川に埋れたり。
中斎最後は山にも限らぬか。
矩之同じ不義にてありながら、北条敗れ足利成る、天意如何でござりまする。
中斎天に問へども天答へず、地に質せば乱れたり。人こそ今に正すべけれ。筆か劔か幾度も、敗れ敗れて倒るとも、遂に正義の世となさん。
矩之しかし今は太平の、君父に忠孝尽すより、外に務はござりますまい。
中斎忠孝の外に仁義あり、君父と共に百姓あり。
矩之されど禄を食をはむからは、
中斎其禄は誰が出す?民と国主といづれを以て、御身は重しとなし居るな。
矩之民の為に君重く、君の為に民安し、君に尽すが士の本分。
中斎それは常の時の事、民苦で嘆く時は、君を措て救はんや。
矩之君の手を借り救ひ申す
中斎君若し心無き時は?
矩之 及ぶだけ我手にて、
中斎君を忘れて救ふのか。
矩之忘れは致さぬ君父の大恩。
中斎すりやどこまでも?
矩之忠孝こそ徳の本、道も教も皆孝とは、先生の日頃のお諭(さとし)
中斎親に尽すは庶人の孝、君に尽すは士の孝なり、天下に尽すぞ孝の孝。
矩之すりや家を亡ぼしても?
中斎オゝ
矩之君父の恩を差置ても?
中斎オゝ
矩之フム――
  考ふ
中斎あれあれ遠く練り行くは、いつくの国主の行列ぢや
  二人立つ


高安月郊「大塩平八郎」目次その1(登場人物)/その9その11

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