高安 月郊(1868-1944) 金港堂書籍 1902 より
*** | 山の頂、一面岩石、上少しく平坦なり。一方に石の小祠(やしろ)あり。下手に上り口あり。向 山々見ゆ。曇天、大風。 |
中斎岩を踏で立つ。 | |
中斎 | 二十二年の其昔、血気盛の若者と、茲に競ふて登りしが、思ひ出せば彼の時は、空に微塵の雲もなく、胸に微塵の思無し、吹き来る風もいと清く、四方の山々穏に、海さへ鏡に似たりしが、今は天も地も暗く、心も暗き秋の日に、此大風は天の血気か、そも浩然の気なるか、太虚の中にも怒あり、剛毅は天の大徳なり。静なるのみにては虚無となる、時あつて動けばこそ、天の威徳行はるれ。あな心地好の嵐やな。天のいづくに起りけん。胸にも起る大風は此侭に止まれんや。止むるは何者ぢや何者ぢや。 |
木の葉谷より吹上る | |
散るわ散るわ秋の葉の、行衛は谷か海原か、脆きは民にさも似たり。石に根からむ悪草を、払はんとせば先ず散らん。これが為に止まれんや。払はずは尚枯れん。再び春に逢はざるべし。散らせ散らせ皆散らせ。 | |
風の音 | |
孔子逝きて二千年、経書は今に伝はるも、斯道尚も行はれず、天下は長く春秋の世をくりかへすもどかしさ。強き者は楽みて、弱き者は苦の果はいつと望まれん。此苦を苦めば、彼の楽も楽しからず、罪なり害なり病なり。天下の病は吾病、心の病を治むるに、此身を裂くを厭はんや。正義の太刀に差別なし。何惜む何憾む何恐る。落ちよ落ちよ天の風、心の風も吹き起り、三百年の夢破り、六十州を驚かせ。積り積りて解けざりし、正義を茲に伸ばさにやならぬ。 | |
大風の音 | |
矩之丞登り来る。 | |
矩之 | 先生、先生 |
中斎 | 宇津木か。 |
矩之 | 余りの風に木陰に入り、暫く待つて居りましたが、止む気色はござりませぬ。 |
中斎 | いかでたやすく止むべきか。 |
矩之 | それでは興もござりませぬ、早う下山致しませう。 |
中斎 | 止まねばこそ興も多いわ。 |
矩之 | そりやまた何故。 |
中斎 | あれ見よ浪華は蜂の巣か、蟻の穴より小さきに、此風一たび落しなば、前の海にも散り行かん。 |
矩之 | しかしこれにて野は荒され、一汐不作でござりませう。 |
中斎 | イヤなに宇津木、御身は多き門人の中にもわけて頼もしく、股肱の思をなし居れば、けふの登山も唯一人、御身のみ伴ふたり。 |
矩之 | 拙者も遠く御名を慕ひ、君父の暇乞受けて、従ひ学ぶ此年頃、常の師とは思ひませぬ。 |
中斎 | さては御身に聞く事あり。 |
矩之 | 拙者も密に伺ひたし。 |
中斎 | なに御身も聞きたいとは? |
矩之 | 先づ先生よりお聞かせ下され。 |
中斎 | 然らば我より云ひ出さん。此山は摂津にて第一の嶮山なり。茲に籠らば楠の千早とは如何であらう。 |
矩之 | 要害は劣りませぬが、勝負は兵にござりませう。 |
中斎 | 楠とて数千人、敵は六十余州の武士。 |
矩之 | しかし戴く大君あり。 |
中斎 | 茲にも民を従へなば、 |
矩之 | 民とは町人百姓ならば何の力になりませうや。 |
中斎 | 力も無く光も無く、何のすべも知らずとも、其為に起りなば、喜はいかばかり。 |
矩之 | しかしかの楠もかしこの川に埋れたり。 |
中斎 | 最後は山にも限らぬか。 |
矩之 | 同じ不義にてありながら、北条敗れ足利成る、天意如何でござりまする。 |
中斎 | 天に問へども天答へず、地に質せば乱れたり。人こそ今に正すべけれ。筆か劔か幾度も、敗れ敗れて倒るとも、遂に正義の世となさん。 |
矩之 | しかし今は太平の、君父に忠孝尽すより、外に務はござりますまい。 |
中斎 | 忠孝の外に仁義あり、君父と共に百姓あり。 |
矩之 | されど禄を食をはむからは、 |
中斎 | 其禄は誰が出す?民と国主といづれを以て、御身は重しとなし居るな。 |
矩之 | 民の為に君重く、君の為に民安し、君に尽すが士の本分。 |
中斎 | それは常の時の事、民苦で嘆く時は、君を措て救はんや。 |
矩之 | 君の手を借り救ひ申す |
中斎 | 君若し心無き時は? |
矩之 | 及ぶだけ我手にて、 |
中斎 | 君を忘れて救ふのか。 |
矩之 | 忘れは致さぬ君父の大恩。 |
中斎 | すりやどこまでも? |
矩之 | 忠孝こそ徳の本、道も教も皆孝とは、先生の日頃のお諭(さとし)。 |
中斎 | 親に尽すは庶人の孝、君に尽すは士の孝なり、天下に尽すぞ孝の孝。 |
矩之 | すりや家を亡ぼしても? |
中斎 | オゝ |
矩之 | 君父の恩を差置ても? |
中斎 | オゝ |
矩之 | フム―― |
考ふ | |
中斎 | あれあれ遠く練り行くは、いつくの国主の行列ぢや |
二人立つ |