高安 月郊(1868-1944) 金港堂書籍 1902 より
*** | 床に王陽明の画像をかけ、前に卓を置き、其上に祭文を載す。横に書棚あり、多く、和漢の書籍を積む。一方に窓あり、其下に机をすゑ、机上 筆墨硯紙を置く。総て秩序正しき躰。下手に廊下あり、前は庭、松の古木あり、其陰に池あり、此方に切戸あり。 矩之丞、済之助、儀左衛門、助次郎、正一郎、向ひ坐す。 |
済之 | していづくまで行かれたな。 |
矩之 | さればお別れ申してより、山陽道を下の関、九州に打渡り、文に武に名ある人々、殆ど残さず尋ねましたが、夕陽村に葉落ちて、遠思楼の窓薄く、日影衰ふ文学に、武芸も思ふ程もなし、イヤ世も末になりましたな。 |
正一 | 世も末とは老の繰言、若き者は改むべし。 |
済之 | 人より政事要害は? |
矩之 | 政事とて人にあるもの、備前も蕃山の名のみにて、肥後に峙(そば)だつ城廓も、思ひやるは古将軍、要害のみはこれより西、先づ第一でござら うか。 |
儀左 | して薩摩へは入られたか。 |
矩之 | 薩摩のみは関所厳しく、拙者も意外の疑受け、遂に入る事かなひ申さず。 |
助次 | して長崎へは? |
矩之 | 長崎へは寄りましたが、我邦にてもまた格別、著しきは異国船、小城浮べし如くにて、瞬くひまに右左、町を震はす筒音には、思ひしより驚きました。 |
正一 | それは山陽先生より、いつぞやお話し承はつたが、親しく見たきものでござる。 |
書生逃来る、中斎刀を抜て追ひかけて出づ。 | |
済之 | これは何と、 |
五人 | なされまする。 |
中斎 | 此困窮の世を顧みず、酒に乱るゝ不届奴。 |
書生 | いえ飲みは致しませぬ、酒飲むべし、兵用ゆへしと、吟じたばかりでござりまする。 |
中斎 | 飲まずして色に出づるか、殊に其酒は商人より、賄賂として取つたであらうが。 |
書生 | それは。 |
中斎 | 一物すら故無くして、人より受くる事ならぬと、日頃の戒打破り、塾を汚す不徳の振舞、免(ゆる)す事成らぬ。 |
書生 | でも今の世の中は、お奉行でも老中でも、賄賂は殆ど表向。 |
中斎 | だまれ此奴、其悪風を正さんと、いつぞや我へも贈りしを、白洲へ擲ちこらしたり。然るにまたもや行はるゝ浅ましき世の有様、我門生にして習ふとは。 |
書生 | それは金がござりませぬ故。 |
中斎 | いやいよいよ卑しき其根性、打て捨つるそれへ出よ。 |
済之 | 先づお待ちなされませ。善無く悪無きは心の躰と、兼てより承はる。 |
儀左 | よくよく気質をため直し、御学風に帰し申さん。 |
助次 | 過ちても改むれば君子となるを害せずとか。 |
正一 | それ早くお詫び致せ。 |
書生 | ヘイヘイ御免下さりませ、以後を急度改めます、酒呑むべからず兵用ゆべからず。 |
中斎 | いやまだ酔醒めぬ其言葉、刀の切味しらしてやらう。 |
振上る | |
矩之 | アいや暫く、山陽先生よりいつぞやの、御刀のかへしとて、作り置かれし此一詩、ことづかつて参りました。先づ御覧なされませ。 |
唐紙半切を出す | |
中斎 | (広げ見て)なに
魚腸紋雑血痕■ 吾書字々頗類此 此是千古英雄血
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矩之 | 筆と劒とかはれども、英雄ならずは大姦の、血汐を灑く御刀、彼等如きにお汚しあつては、外史の句意も如何やら。 |
中斎 | げに人去りて尚残る、友の心のうれしさよ。 |
済之 | 然らばお免しなされまするか。 |
中斎 | オゝ厳しく以後を戒めよ。 |
儀左 | ハツ、それ早う次へ立て。 |
書生 | ハア、難有う存じまする。 |
中斎 | ア過ぎし舟遊の其折も、戒められし我気質、変化なしても尚残る、剛毅の癖は我学風、イヤあれ程までに懲さずば肝に銘ずるものならず。 |
済之 | いやまた世上の儒者抔と、門戸を構ふる者共は、文の心はよく解けど、人に憚り世に阿(おも)ねり言葉左右に筆曲ぐる、卑怯者ばかりにして、 |
儀左 | 殊に権門豪家へは、折がなあれば出入なし、貧しき者には目もかけず、昨今の飢饉すら、救治の策もめぐらさず。 |
正一 | 言行いつも相違して、無為無能の儒者文人無知無学の老中奉行 |
助次 | さればこそ先生が、口に、お教へあるばかりか、手に救はんと此度の―― |
矩之 | あの返答は、 |
五人 | ござりましたか。 |
中斎 | いや今以て答へぬのぢや。 |
助次 | 何さま少しの金ではなし、いかに豪商なればとて、さうたやすくは出されもすまじ。 |
済之 | いやよのつねの時と違ひ、日に日にまさる世の困窮 |
正一 | こりや拙者罷り越し、厳しく談じて見申さん。 |
助次 | いや先生御自身おいでヾさへ、即答致さぬもの共なれば、貴殿にては尚の事。 |
正一 | 彼此申さはおびやかし、刀にかけて出さし申さん。 |
助次 | それはきた余り不作法、いかに厳しき学風とて、左様な振舞なされては、先生の真似損ひ。 |
正一 | いや世の為なれば是非共に、出さゝにやならぬでござらぬか。 |
助次 | それでも出さねば是非がござらぬ。 |
正一 | 貴殿は甚無気力ぢやな。 |
矩之 | いや争はさて置いて、各々方には手分けなし、 |
中斎 | さうぢや諸方を催促せよ、大米屋へは格之助、彼を代りに使はさん、格之助、格之助。 |
格之助出づ。 | |
格之 | 何御用でござりまする。 |
中斎 | 其方これより大米屋へまゐり、此間の返答を、けふは是非共聞いて参れ。 |
格之 | かしこまつてござりまする、御免。 |
入る | |
中斎 | 宇津木にはゆるゆる逗留、先づあなたにて休息せよ。 |
矩之 | 御意にあまへ、御厄介になりまする。 |
済之 | 拙者は倉屋、 |
儀左 | 銭屋太田屋。 |
助次 | 拙者は少し所用ござれば、一寸帰宅致しまする。 |
正一 | それでは先生。 |
中斎 | 大義ぢやのう。 |
皆入る 鐘の音 | |
中斎 | ア得難きは知己ぢやなあ――指折るに唯一人、其山陽に別れてより、ひもときかへすいにしへの、鴻儒の文も意に合はず。偶々迫る世の様に、空しき胸はいとど尚、張裂くばかり思へども、位無ければ益もなく、無念ながらも遊民に、頼めど今に調はず。唯いつはりに打向ふ、我真心は同人の、志を集めたり。天理遂に衰へず。かくてはいつか救はるべし。世の苦さへ除きなば、我病も亦癒えて、晴るゝ心は大川か、庭の小池も澄めば澄む。水と月との楽は、独りにても足るならん。(池に音あり。)ヤあの音は?(見まはす。)オ魚が躍つたのか。波無き池に波起すは、魚の意か天の意か。――あれあれ地上に身を落し、はねつまろびつ苦しむわ――早 蟻に攻めらるゝ――はてなあ。 |
腕を組で考ふ。 次郎七金箱を持て松の陰より出で、そと机の上に置て下手へ行かうとする。 | |
中斎 | (見とめて)何者ぢや。 |
次郎 | ヘイ――盗人(ぬすつと)でござります。 |
中斎 | 何と? |
次郎 | しかしこちらへは千両箱、置きにまゐつたのでござります。 |
中斎 | そりやまた何故? |
次郎 | そつと行かうと思ひましたに、お目にとまつてしくぢりました。それでは一寸其訳を、旦那、まあお聞き下さりませ。私は此間、大米屋へおいでの節、どさくさまぎれに忍び込み、あの金箱を取りましたが、其時聞いた旦那のお話、貧しい者を救はふと、あんな奴等に頭下げ、お頼みなさるお志、ぐつと胸に染込みまして、持て上つた此金子、これは私の志、盗人(ぬすびと)ながらこればかりは、人間のつもりでござります。どうぞお使ひ下さりませ。 |
中斎 | ハゝゝゝゝ人間は人間ぢやが、物の道理が分らぬな。 |
次郎 | 物の道理が分らぬのは、私ばかりぢやござりませぬ。あの大米屋はいふにはばず、金のある人間に、分る奴はござりませぬ。折角旦那のお頼みでも、あれは無駄でござりますな。 |
中斎 | 其方にすら心あれは、彼等にも心はある。 |
次郎 | 其心は慾ばかり、溜まれば愈々溜めたうなるが、金持の皆根性、何の一文でも出しませう。お上のふれか名聞か、つまり得になる事なら、出すまいものでもござりませぬが、理屈詰におつしやつても、そんなまだるい相談は、口に風引かすばかり。それよりは私に、それはお任せ下さりませ。これから倉屋其外へ、片つ端から忍込み、千両でも万両でも、黙つて取つてまゐりませう。其方が早手まはし、却つてお役に立ちませう。 |
中斎 | いやこりや某も賊に落すか。 |
次郎 | めつさうな事おつしやりませ。盗賊所か聖人とか、仁者の旦那の手先につき、働いたら、罪亡ぼし。 |
中斎 | 何の罪が亡ばふぞ、悪を消すは善ばかりぢや。志は善にもせよ、盗みなさば同じ盗賊、それを使はゞ我も盗賊。 |
次郎 | すりやどうでも私の、 |
中斎 | 不正の金が役に立たうか、早々元へ返してまゐれ。 |
次郎 | 元へ返さば倉の塵、それでは直々施行して、 |
行きかける、 | |
中斎 | 盗賊待て。 |
次郎 | エイ? |
中斎 | 我も昔は与力なり、盗賊と知りながら、其侭出す事ならぬ。 |
次郎 | 成程これは御迷惑、そんならどうぞ縄打つて、お突出し下さりませ。旦那の手で打たれましたら、本望でござります。 |
中斎 | 我打つ縄は仁義の縄、入牢さすは洗心洞、 |
次郎 | エ。 |
中斎 | 道義の法を教ゆるぞ。 |
次郎 | いやそれはいけませぬ、盗賊は私の業、これで死ぬに極めました。 |
中斎 | いや其方とて生れながら、盗賊でもあるまいが、よし気質曲るにせよ、変へられぬ事あるまい。 |
次郎 | それはまんざら私でも、三つ子の内から盗みはしませぬ。貧乏ながら親は堅気、私も銭屋へ奉公する中、向の息子のおろかもの、悪戯(わるさ) かうじて火事遊、昼日中火をつけて家を焼いた其咎を私にぬすりつけ、分疏 (いいわけ)しても主と金、役人に取入つて、理を非に曲げて揚屋入り。中で覚えた盗みの術、牢まで破つて出てからは、金持が憎うなり、盗みに入るも敵打ち、人殺しはしませぬが、命二つあつても足らぬ、罪深い此躰、今さら何を聞きましても、もう遅うござります。 |
中斎 | いや死ぬまでは遅うない。よしまた活きて居ればとて、道を知らずは死人も同然。 |
次郎 | でも道知らぬ人間が、活きて居るばつかりか、栄耀栄華をして居ります。 |
中斎 | そりや夢の目で見る故ぢや。 |
次郎 | 夢かうつゝか知りませぬが、坊主まで肉食妻帯、一寸先は闇の世の、今を助かる御利益は仏様にもござりますまい。 |
中斎 | 仏にないが儒門にある。 |
次郎 | あの御利益が? |
中斎 | いかにも。 |
次郎 | いやこれは得心出来ませぬ。早い話が旦那でも、矢つ張金を金持に、借りにおいでなさるではござりませぬか。 |
中斎 | いや金は借りても救ふは心ぢや。 |
次郎 | 其心ばかりでは、御利益がござりますか。 |
中斎 | 心が無くは利益もない。 |
次郎 | いや金が無くはござりませぬ。 |
中斎 | さてさて悟りの悪い奴ぢやなあ。 |
次郎 | 旦那もまた御正直な、私はどうでも金が敵(かたき)。しかしいつまでかゝつても、尽きぬ金銀まさる罪咎、大きな事を最後にして、娑婆の埒をあけるつもり。幸のお催ほしせめては余所にお志、私丈にいたします、まあ御覧下さりませ。 |
中斎 | いや不正な事は決してならぬ、予のわづらひとなるであらう。 |
次郎 | 何の御迷惑かけませう。しかし悪を懲すは悪が一番、私が好いか旦那が好いかどちらが余計利益になるやら、其内また上ります。 |
行きかける | |
中斎 | いや待て待てまだ云ふ事あり、も一度篤と諭してやらう。 |
次郎 | いや御講釈には及びませぬ、八阪の婆より邪宗でも、盗人にも宗旨がござります、仲間の道は云はぬが法、これはお邪魔を致しました。 |
中斎 | あこりやこりや――参つたか――一癖ある面魂、用ゆべき奴なりしに説き伏せざりしは残念ながら、盗人にも道ありとは、頼もしき人心、誠に道は天躰なり。かくては無学の町人とて、一しほ心無ければならぬ。早う返事が聞きたいものぢやわい。 |
格之助走つて出つ。 | |
格之 | 父上無念でござりまする。 |
中斎 | どうぢやあなたの返答は。 |
格之 | 無礼極まる町人共、今日まで捨置て、今となつて断りとは。 |
中斎 | なに断り! |
格之 | 余りの事にあきれはて、厳しく訳を質せし所、お奉行に伺ひしに、以ての外と退けられ是非無き事と逃口上―― |
中斎 | 憎むべき奴原ぢやな――私利私欲に眼くらみ、世の困窮を顧みず、上にかこつけ謝絶とは!大和守も大和守!己せずばせぬまでよ。人の救助を妨ぐとは、非義非道の奸物共、日頃より忍ばれぬ、賄賂を以て大役買ひ、賄賂を以て政事を売り、富豪をかばひ貧者を圧へ、此困窮を見殺しに、禁裡までないがしろとは、道も情も知らぬよな。天も恐れぬ町人共、運よきまゝに増長なし、坐ながら奢に飽くばかりか、奸物共と馴れ合ふて、不義の富貴を積み重ね、飢饉に耳を蔽ふとは、罪人ぢや罪人ぢや。此罪人を捨置かは、四海は狐狼の巣とならん。最早堪忍相成らぬ、我せんすべをよつく見よ。 |
格之 | して父上には? |
中斎 | 金銀こそ蓄へざれ、金銀にて計られぬ、蔵書悉皆売払ひ、貧しき者に施さん本屋呼べ本屋呼べ。 |
棚の書物を投出す、ゆう、矩之丞左右より伺ふ。 | |
格之 | あの御秘蔵の此書籍を? |
中斎 | 古人の心もこれぢやわい。 |