Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.5.31訂正
2000.5.5

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大塩の乱関係論文集目次

高安月郊「大塩平八郎」目次


「大 塩 平 八 郎」その9

高安 月郊(1868-1944)

金港堂書籍 1902 より



◇禁転載◇

第三段  其三 同 書斎

***
床に王陽明の画像をかけ、前に卓を置き、其上に祭文を載す。横に書棚あり、多く、和漢の書籍を積む。一方に窓あり、其下に机をすゑ、机上 筆墨硯紙を置く。総て秩序正しき躰。下手に廊下あり、前は庭、松の古木あり、其陰に池あり、此方に切戸あり。

  矩之丞、済之助、儀左衛門、助次郎、正一郎、向ひ坐す。

済之していづくまで行かれたな。
矩之さればお別れ申してより、山陽道を下の関、九州に打渡り、文に武に名ある人々、殆ど残さず尋ねましたが、夕陽村に葉落ちて、遠思楼の窓薄く、日影衰ふ文学に、武芸も思ふ程もなし、イヤ世も末になりましたな。
正一世も末とは老の繰言、若き者は改むべし。
済之人より政事要害は?
矩之政事とて人にあるもの、備前も蕃山の名のみにて、肥後に峙(そば)だつ城廓も、思ひやるは古将軍、要害のみはこれより西、先づ第一でござら うか。
儀左して薩摩へは入られたか。
矩之薩摩のみは関所厳しく、拙者も意外の疑受け、遂に入る事かなひ申さず。
助次 して長崎へは?
矩之長崎へは寄りましたが、我邦にてもまた格別、著しきは異国船、小城浮べし如くにて、瞬くひまに右左、町を震はす筒音には、思ひしより驚きました。
正一それは山陽先生より、いつぞやお話し承はつたが、親しく見たきものでござる。
  書生逃来る、中斎刀を抜て追ひかけて出づ。
済之これは何と、
五人     なされまする。
中斎此困窮の世を顧みず、酒に乱るゝ不届奴。
書生いえ飲みは致しませぬ、酒飲むべし、兵用ゆへしと、吟じたばかりでござりまする。
中斎飲まずして色に出づるか、殊に其酒は商人より、賄賂として取つたであらうが。
書生それは。
中斎一物すら故無くして、人より受くる事ならぬと、日頃の戒打破り、塾を汚す不徳の振舞、免(ゆる)す事成らぬ。
書生でも今の世の中は、お奉行でも老中でも、賄賂は殆ど表向。
中斎だまれ此奴、其悪風を正さんと、いつぞや我へも贈りしを、白洲へ擲ちこらしたり。然るにまたもや行はるゝ浅ましき世の有様、我門生にして習ふとは。
書生それは金がござりませぬ故。
中斎いやいよいよ卑しき其根性、打て捨つるそれへ出よ。
済之先づお待ちなされませ。善無く悪無きは心の躰と、兼てより承はる。
儀左よくよく気質をため直し、御学風に帰し申さん。
助次過ちても改むれば君子となるを害せずとか。
正一それ早くお詫び致せ。
書生ヘイヘイ御免下さりませ、以後を急度改めます、酒呑むべからず兵用ゆべからず。
中斎いやまだ酔醒めぬ其言葉、刀の切味しらしてやらう。
  振上る
矩之アいや暫く、山陽先生よりいつぞやの、御刀のかへしとて、作り置かれし此一詩、ことづかつて参りました。先づ御覧なされませ。
  唐紙半切を出す
中斎(広げ見て)なに
    君刀疑経斬姦邪
    魚腸紋雑血痕■
    吾書字々頗類此
    此是千古英雄血
    ■の字
矩之筆と劒とかはれども、英雄ならずは大姦の、血汐を灑く御刀、彼等如きにお汚しあつては、外史の句意も如何やら。
中斎げに人去りて尚残る、友の心のうれしさよ。
済之然らばお免しなされまするか。
中斎オゝ厳しく以後を戒めよ。
儀左ハツ、それ早う次へ立て。
書生ハア、難有う存じまする。
中斎ア過ぎし舟遊の其折も、戒められし我気質、変化なしても尚残る、剛毅の癖は我学風、イヤあれ程までに懲さずば肝に銘ずるものならず。
済之いやまた世上の儒者抔と、門戸を構ふる者共は、文の心はよく解けど、人に憚り世に阿(おも)ねり言葉左右に筆曲ぐる、卑怯者ばかりにして、
儀左殊に権門豪家へは、折がなあれば出入なし、貧しき者には目もかけず、昨今の飢饉すら、救治の策もめぐらさず。
正一言行いつも相違して、無為無能の儒者文人無知無学の老中奉行
助次さればこそ先生が、口に、お教へあるばかりか、手に救はんと此度の――
矩之あの返答は、
五人     ござりましたか。
中斎いや今以て答へぬのぢや。
助次何さま少しの金ではなし、いかに豪商なればとて、さうたやすくは出されもすまじ。
済之いやよのつねの時と違ひ、日に日にまさる世の困窮
正一こりや拙者罷り越し、厳しく談じて見申さん。
助次いや先生御自身おいでヾさへ、即答致さぬもの共なれば、貴殿にては尚の事。
正一彼此申さはおびやかし、刀にかけて出さし申さん。
助次それはきた余り不作法、いかに厳しき学風とて、左様な振舞なされては、先生の真似損ひ。
正一いや世の為なれば是非共に、出さゝにやならぬでござらぬか。
助次それでも出さねば是非がござらぬ。
正一貴殿は甚無気力ぢやな。
矩之いや争はさて置いて、各々方には手分けなし、
中斎さうぢや諸方を催促せよ、大米屋へは格之助、彼を代りに使はさん、格之助、格之助。
  格之助出づ。
格之何御用でござりまする。
中斎其方これより大米屋へまゐり、此間の返答を、けふは是非共聞いて参れ。
格之かしこまつてござりまする、御免。
  入る
中斎宇津木にはゆるゆる逗留、先づあなたにて休息せよ。
矩之御意にあまへ、御厄介になりまする。
済之拙者は倉屋、
儀左     銭屋太田屋。
助次 拙者は少し所用ござれば、一寸帰宅致しまする。
正一それでは先生。
中斎大義ぢやのう。
  皆入る

  鐘の音

中斎ア得難きは知己ぢやなあ――指折るに唯一人、其山陽に別れてより、ひもときかへすいにしへの、鴻儒の文も意に合はず。偶々迫る世の様に、空しき胸はいとど尚、張裂くばかり思へども、位無ければ益もなく、無念ながらも遊民に、頼めど今に調はず。唯いつはりに打向ふ、我真心は同人の、志を集めたり。天理遂に衰へず。かくてはいつか救はるべし。世の苦さへ除きなば、我病も亦癒えて、晴るゝ心は大川か、庭の小池も澄めば澄む。水と月との楽は、独りにても足るならん。(池に音あり。)ヤあの音は?(見まはす。)オ魚が躍つたのか。波無き池に波起すは、魚の意か天の意か。――あれあれ地上に身を落し、はねつまろびつ苦しむわ――早 蟻に攻めらるゝ――はてなあ。
  腕を組で考ふ。

  次郎七金箱を持て松の陰より出で、そと机の上に置て下手へ行かうとする。

中斎(見とめて)何者ぢや。
次郎ヘイ――盗人(ぬすつと)でござります。
中斎何と?
次郎しかしこちらへは千両箱、置きにまゐつたのでござります。
中斎そりやまた何故?
次郎そつと行かうと思ひましたに、お目にとまつてしくぢりました。それでは一寸其訳を、旦那、まあお聞き下さりませ。私は此間、大米屋へおいでの節、どさくさまぎれに忍び込み、あの金箱を取りましたが、其時聞いた旦那のお話、貧しい者を救はふと、あんな奴等に頭下げ、お頼みなさるお志、ぐつと胸に染込みまして、持て上つた此金子、これは私の志、盗人(ぬすびと)ながらこればかりは、人間のつもりでござります。どうぞお使ひ下さりませ。
中斎ハゝゝゝゝ人間は人間ぢやが、物の道理が分らぬな。
次郎物の道理が分らぬのは、私ばかりぢやござりませぬ。あの大米屋はいふにはばず、金のある人間に、分る奴はござりませぬ。折角旦那のお頼みでも、あれは無駄でござりますな。
中斎其方にすら心あれは、彼等にも心はある。
次郎其心は慾ばかり、溜まれば愈々溜めたうなるが、金持の皆根性、何の一文でも出しませう。お上のふれか名聞か、つまり得になる事なら、出すまいものでもござりませぬが、理屈詰におつしやつても、そんなまだるい相談は、口に風引かすばかり。それよりは私に、それはお任せ下さりませ。これから倉屋其外へ、片つ端から忍込み、千両でも万両でも、黙つて取つてまゐりませう。其方が早手まはし、却つてお役に立ちませう。
中斎いやこりや某も賊に落すか。
次郎めつさうな事おつしやりませ。盗賊所か聖人とか、仁者の旦那の手先につき、働いたら、罪亡ぼし。
中斎何の罪が亡ばふぞ、悪を消すは善ばかりぢや。志は善にもせよ、盗みなさば同じ盗賊、それを使はゞ我も盗賊。
次郎すりやどうでも私の、
中斎不正の金が役に立たうか、早々元へ返してまゐれ。
次郎元へ返さば倉の塵、それでは直々施行して、
  行きかける、
中斎盗賊待て。
次郎エイ?
中斎我も昔は与力なり、盗賊と知りながら、其侭出す事ならぬ。
次郎成程これは御迷惑、そんならどうぞ縄打つて、お突出し下さりませ。旦那の手で打たれましたら、本望でござります。
中斎我打つ縄は仁義の縄、入牢さすは洗心洞、
次郎エ。
中斎道義の法を教ゆるぞ。
次郎いやそれはいけませぬ、盗賊は私の業、これで死ぬに極めました。
中斎いや其方とて生れながら、盗賊でもあるまいが、よし気質曲るにせよ、変へられぬ事あるまい。
次郎それはまんざら私でも、三つ子の内から盗みはしませぬ。貧乏ながら親は堅気、私も銭屋へ奉公する中、向の息子のおろかもの、悪戯(わるさ) かうじて火事遊、昼日中火をつけて家を焼いた其咎を私にぬすりつけ、分疏 (いいわけ)しても主と金、役人に取入つて、理を非に曲げて揚屋入り。中で覚えた盗みの術、牢まで破つて出てからは、金持が憎うなり、盗みに入るも敵打ち、人殺しはしませぬが、命二つあつても足らぬ、罪深い此躰、今さら何を聞きましても、もう遅うござります。
中斎いや死ぬまでは遅うない。よしまた活きて居ればとて、道を知らずは死人も同然。
次郎でも道知らぬ人間が、活きて居るばつかりか、栄耀栄華をして居ります。
中斎そりや夢の目で見る故ぢや。
次郎夢かうつゝか知りませぬが、坊主まで肉食妻帯、一寸先は闇の世の、今を助かる御利益は仏様にもござりますまい。
中斎仏にないが儒門にある。
次郎あの御利益が?
中斎いかにも。
次郎いやこれは得心出来ませぬ。早い話が旦那でも、矢つ張金を金持に、借りにおいでなさるではござりませぬか。
中斎いや金は借りても救ふは心ぢや。
次郎其心ばかりでは、御利益がござりますか。
中斎心が無くは利益もない。
次郎いや金が無くはござりませぬ。
中斎さてさて悟りの悪い奴ぢやなあ。
次郎旦那もまた御正直な、私はどうでも金が敵(かたき)。しかしいつまでかゝつても、尽きぬ金銀まさる罪咎、大きな事を最後にして、娑婆の埒をあけるつもり。幸のお催ほしせめては余所にお志、私丈にいたします、まあ御覧下さりませ。
中斎いや不正な事は決してならぬ、予のわづらひとなるであらう。
次郎何の御迷惑かけませう。しかし悪を懲すは悪が一番、私が好いか旦那が好いかどちらが余計利益になるやら、其内また上ります。
  行きかける
中斎いや待て待てまだ云ふ事あり、も一度篤と諭してやらう。
次郎いや御講釈には及びませぬ、八阪の婆より邪宗でも、盗人にも宗旨がござります、仲間の道は云はぬが法、これはお邪魔を致しました。
中斎あこりやこりや――参つたか――一癖ある面魂、用ゆべき奴なりしに説き伏せざりしは残念ながら、盗人にも道ありとは、頼もしき人心、誠に道は天躰なり。かくては無学の町人とて、一しほ心無ければならぬ。早う返事が聞きたいものぢやわい。
  格之助走つて出つ。
格之父上無念でござりまする。
中斎どうぢやあなたの返答は。
格之無礼極まる町人共、今日まで捨置て、今となつて断りとは。
中斎なに断り!
格之余りの事にあきれはて、厳しく訳を質せし所、お奉行に伺ひしに、以ての外と退けられ是非無き事と逃口上――
中斎憎むべき奴原ぢやな――私利私欲に眼くらみ、世の困窮を顧みず、上にかこつけ謝絶とは!大和守も大和守!己せずばせぬまでよ。人の救助を妨ぐとは、非義非道の奸物共、日頃より忍ばれぬ、賄賂を以て大役買ひ、賄賂を以て政事を売り、富豪をかばひ貧者を圧へ、此困窮を見殺しに、禁裡までないがしろとは、道も情も知らぬよな。天も恐れぬ町人共、運よきまゝに増長なし、坐ながら奢に飽くばかりか、奸物共と馴れ合ふて、不義の富貴を積み重ね、飢饉に耳を蔽ふとは、罪人ぢや罪人ぢや。此罪人を捨置かは、四海は狐狼の巣とならん。最早堪忍相成らぬ、我せんすべをよつく見よ。
格之して父上には?
中斎金銀こそ蓄へざれ、金銀にて計られぬ、蔵書悉皆売払ひ、貧しき者に施さん本屋呼べ本屋呼べ。
  棚の書物を投出す、ゆう、矩之丞左右より伺ふ。
格之あの御秘蔵の此書籍を?
中斎古人の心もこれぢやわい。


高安月郊「大塩平八郎」目次その1(登場人物)/その8その10

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