Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.5.10

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大塩の乱関係論文集目次

高安月郊「大塩平八郎」目次


「大 塩 平 八 郎」その12

高安 月郊(1868-1944)

金港堂書籍 1902 より



◇禁転載◇

第五段 其一 大塩邸 一間

 
***
小座敷、左右庭、上手奥庭へ通ふ切戸あり、下手塀、裏へ出る口あり。夕暮。
  矩之丞手紙を認めて居る。
矩之あ思へばこれも天命か、良知の学の慕はしく、此門に入りしより、経書の講義のみならず、熱きなさけの身に染みて、師弟の契約なしたるが、思ひもよらぬ此陰謀、いかにしても従はれず、さればとて見捨てゝは、弟子の道も亦立たず、君父と師とに挟まれて、行くに行かれず止まられず。かゝる折に来合せしは、是非もなき我薄命。所詮一命投げ出し、諌言なすより外はなし。かくとは夢にも知り給はず、故郷にてはけふ翌(あす)と、指折りて待ち給はん。百里二百里海山の、遠き西には事無くて、唯二十里の此地にて、命終ると聞き給はゞ、いかにくやしくおぼされん。君の御恩に酬いぬも、心にかゝる我最期、せめて此書を贈りなば、我苦しさも推察なし、浪華に烟上る時、彦根に回向し給はん。土産も形見も一つぢやなあ。
  若党友蔵出づ。
友蔵 若旦那御油断はなりませぬ。
矩之オ友蔵、今呼ばうと思ふた所ぢや。
友蔵早くお支度なされませ、片時も猶予はできませぬ。
矩之其方こそ猶予せず、これを持つて抜けて出よ。
  手紙を渡す
友蔵そりや御存じでござりまするか。
矩之知れぬ様 心をつけい。
友蔵そしてまたあなた様は?
矩之某は去りはせぬ。
友蔵あの御加担なされまするか。
矩之加担もせぬ逃れもせぬ。
友蔵それでは若しやお身の上に、
矩之かゝはるは元よりぢや。
友蔵エイ。
矩之仔細はこれに認めたれば、急いで彦根に立帰り、君と父とに伝へてくれ
友蔵どうして此侭参られませう。現在危うい邸の躰、もしもの事がござりましたら何と申訳致しませう。 矩之 いや、其方が居ればとて、何の甲斐があるものぞ。それよりは其書置き、届けくれねば我心 知られずに終るであらう。
友蔵それぢやと申して――
矩之忠義は一つぢや。
友蔵ハツ、
矩之早行け早行け。
友蔵若旦那
  顔を見上げる
矩之オゝ、
友蔵づいぶん御無事で――
矩之いやこれが最後の、別れぢやわい。
友蔵ハア―
  泣俯す。人音。矩之丞目くばせして促がす。友蔵涙を揮うて入る。
  ゆう上手の切戸より出づ。
ゆう宇津木様。
矩之これは奥様、何御用でござりまする。
ゆうちと折入つてのお頼みが――
矩之なにお頼みとおつしやるは、
ゆう此程よりの邸の様子、定めて御存じでござりませう。
矩之されば日頃と事変り、大筒小筒槍長刀、不思議なお稽古なされまする。
ゆうしてあなたの御思案は?
矩之お尋ねまでもなく、これより直様先生に――
ゆう御同意でござりまするか。
矩之いや御諌め申す所存でござる。
ゆう私も訳は分らねど、見す見す危き此企。打明けもなさらぬ故、独り心配するばかり、愈々迫る日限に、夜の目も中々合ひませぬ。
矩之すりやあなたも不承知とな。
ゆうそれ故あなたにお尋ね申し、どうぞして止め様と、御相談にまゐりました。
矩之所詮外に思案はござらぬ、唯真心を打明けて、及ばぬ時は此一命、
ゆう私も少しも惜みませぬが、どう云はふやら理は知らず、
矩之それは拙者が申すでござらう、情を以ておとゞめあれ。
ゆういえいえ情には曲げぬ気質。
矩之いや此度の企も、情より起ると覚えたれば、情もて行かば好きかも知れず。
ゆうそんならこれより二人して、
矩之聞かれぬまでもお諌め申し、
ゆう首尾よう行かば何よりか、
矩之行かねば先へ血を流す、
ゆう覚悟きめては涙さへ
矩之見せぬが
二人    武士の習ぢやなあ。


高安月郊「大塩平八郎」目次その1(登場人物)/その11その13

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