高安 月郊(1868-1944) 金港堂書籍 1902 より
*** | 小座敷、左右庭、上手奥庭へ通ふ切戸あり、下手塀、裏へ出る口あり。夕暮。 |
矩之丞手紙を認めて居る。 | |
矩之 | あ思へばこれも天命か、良知の学の慕はしく、此門に入りしより、経書の講義のみならず、熱きなさけの身に染みて、師弟の契約なしたるが、思ひもよらぬ此陰謀、いかにしても従はれず、さればとて見捨てゝは、弟子の道も亦立たず、君父と師とに挟まれて、行くに行かれず止まられず。かゝる折に来合せしは、是非もなき我薄命。所詮一命投げ出し、諌言なすより外はなし。かくとは夢にも知り給はず、故郷にてはけふ翌(あす)と、指折りて待ち給はん。百里二百里海山の、遠き西には事無くて、唯二十里の此地にて、命終ると聞き給はゞ、いかにくやしくおぼされん。君の御恩に酬いぬも、心にかゝる我最期、せめて此書を贈りなば、我苦しさも推察なし、浪華に烟上る時、彦根に回向し給はん。土産も形見も一つぢやなあ。 |
若党友蔵出づ。 | |
友蔵 | 若旦那御油断はなりませぬ。 |
矩之 | オ友蔵、今呼ばうと思ふた所ぢや。 |
友蔵 | 早くお支度なされませ、片時も猶予はできませぬ。 |
矩之 | 其方こそ猶予せず、これを持つて抜けて出よ。 |
手紙を渡す | |
友蔵 | そりや御存じでござりまするか。 |
矩之 | 知れぬ様 心をつけい。 |
友蔵 | そしてまたあなた様は? |
矩之 | 某は去りはせぬ。 |
友蔵 | あの御加担なされまするか。 |
矩之 | 加担もせぬ逃れもせぬ。 |
友蔵 | それでは若しやお身の上に、 |
矩之 | かゝはるは元よりぢや。 |
友蔵 | エイ。 |
矩之 | 仔細はこれに認めたれば、急いで彦根に立帰り、君と父とに伝へてくれ |
友蔵 | どうして此侭参られませう。現在危うい邸の躰、もしもの事がござりましたら何と申訳致しませう。 矩之 いや、其方が居ればとて、何の甲斐があるものぞ。それよりは其書置き、届けくれねば我心 知られずに終るであらう。 |
友蔵 | それぢやと申して―― |
矩之 | 忠義は一つぢや。 |
友蔵 | ハツ、 |
矩之 | 早行け早行け。 |
友蔵 | 若旦那 |
顔を見上げる | |
矩之 | オゝ、 |
友蔵 | づいぶん御無事で―― |
矩之 | いやこれが最後の、別れぢやわい。 |
友蔵 | ハア― |
泣俯す。人音。矩之丞目くばせして促がす。友蔵涙を揮うて入る。 | |
ゆう上手の切戸より出づ。 | |
ゆう | 宇津木様。 |
矩之 | これは奥様、何御用でござりまする。 |
ゆう | ちと折入つてのお頼みが―― |
矩之 | なにお頼みとおつしやるは、 |
ゆう | 此程よりの邸の様子、定めて御存じでござりませう。 |
矩之 | されば日頃と事変り、大筒小筒槍長刀、不思議なお稽古なされまする。 |
ゆう | してあなたの御思案は? |
矩之 | お尋ねまでもなく、これより直様先生に―― |
ゆう | 御同意でござりまするか。 |
矩之 | いや御諌め申す所存でござる。 |
ゆう | 私も訳は分らねど、見す見す危き此企。打明けもなさらぬ故、独り心配するばかり、愈々迫る日限に、夜の目も中々合ひませぬ。 |
矩之 | すりやあなたも不承知とな。 |
ゆう | それ故あなたにお尋ね申し、どうぞして止め様と、御相談にまゐりました。 |
矩之 | 所詮外に思案はござらぬ、唯真心を打明けて、及ばぬ時は此一命、 |
ゆう | 私も少しも惜みませぬが、どう云はふやら理は知らず、 |
矩之 | それは拙者が申すでござらう、情を以ておとゞめあれ。 |
ゆう | いえいえ情には曲げぬ気質。 |
矩之 | いや此度の企も、情より起ると覚えたれば、情もて行かば好きかも知れず。 |
ゆう | そんならこれより二人して、 |
矩之 | 聞かれぬまでもお諌め申し、 |
ゆう | 首尾よう行かば何よりか、 |
矩之 | 行かねば先へ血を流す、 |
ゆう | 覚悟きめては涙さへ |
矩之 | 見せぬが |
二人 | 武士の習ぢやなあ。 |