高安 月郊(1868-1944) 金港堂書籍 1902 より
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向に大阪城、上手に天満橋、下手に網島見ゆ。月明。中流に小舟一艘、中に頼山陽、大塩中斎、いづれも羽織着流し、大塩格之助袴ばかり、船尾(とも)に船頭控ゆ。 |
中斎 | かしましき世を暫は茲に離れて大川や、水の心は月のかげ、月の心は我心、太虚くもらす村雲を、払へば同じ生死の、外に動ける良知こそ、此川風ではござらぬか。 |
山陽 | げに清風と明月の、主人が出す盃に、酔へばをかしや夜の様、醜き所押隠し、光るは星かともしびの、橋を過ぐるは人や行く。桜の宮は朧々と、東の山も稍(やゝ)薄し。時は違へど赤壁の蘇子が遊もかくやらん。 |
中斎 | 彼に劣らぬまらうどゝ、一気に乗りて果知らず、いでや夜涛を聞くべきか。 |
山陽 | 其黄楼の声よりも、誰が吹きすさぶ簫の音に、我孟徳のやまと歌、今に残れる大阪城。 |
格之 | 一首伺ひたうござる。 |
山陽 | いや詩句よりも先立つは、猿面冠者の身の終。 |
中斎 | 客には何を嘆かるゝ。 |
山陽 | さればあはれでござらぬか。赤手に竜を生捕つて、虎に惜まず肉分ち、繋ぐ天下も一時の、栄華は波と砕け散り、空しく残る石垣に、文字並べても何の詮。こりや誰が咎でござらうな。 |
中斎 | しかし彼も快人ぢや。四海を握つて私せず、得るに従ひ、散らすとは。 |
山陽 | 散らすのみにて保たずば、明を得るとも足りはせじ。 |
中斎 | さればこそ家康が、跡を拾ふて徳川の、天下も今に三百年。 |
山陽 | 盛りも茲に極りましたな。 |
中斎 | いや人より見れば長くとも、天より見れば春一夜、兎にも角にも情慾の、波瀾は夢かまぼろしか、是にもあらず、非にもあらず。 |
山陽 | 足下はよろづ 内に見て、心を洗ふ洞の主、我は先づ外に見て、想ひめぐらす峰の客。 |
中斎 | 異なる気質も知り知られ、名利を辞して我も今、淀の流れに書を読めば、 |
山陽 | 鴨の流に筆洗ふ、技は違へど文と儒と、いとヾ相合ふ意気と意気。 |
中斎 | 彼時 独り胸を指し、復出るなと戒めしは、天下に足下一人であつた。 |
中斎 | いや 君も図らず用ひられ、奸を挫き邪を除き、余りに剛に過ぎ足れば、折るゝを待たず退きて、また動かぬに若く事無し。 |
中斎 | 誠に君の云はるゝ如く、心太虚に帰してより、学で時に教ゆるばかり、気を養へば胸安し。 |
山陽 | 願はくばいつまでも互にかくてありたけれ。 |
中斎 | 身は衰へて朽つるとも、心ばかりは残さんと、洗心洞箚記二巻、此程より着手致した。 |
山陽 | それは早く見たきもの、某も日本外史漸く過日脱稿致した。 |
中斎 | 待ち兼ねし大著述、是非々々内見致したし。 |
山陽 | 近日お送り申すでござらう。ア思ひ出せばこぞの秋、先師の杖を失ひし、憾 晴れしも君が蔭。 |
中斎 | 人に許さぬ畢生の著述示すも我故か。 |
山陽 | 今又茲に酌みかはす、智の盃は限無く、 |
中斎 | 夜は深るとも時知らず、 |
山陽 | 処は比無き大澱に、 |
中斎 | 繋がぬ舟の面白さ、 |
山陽 | こりや十分に |
二人 | 過しませうか、 |
格之 | あれあれ月に村雲が―― |
中斎 | いや曇らぬ心は澄み渡る、此清興に肴せよ。 |
山陽 | 肴は何より此古城。 |
中斎 | いや城よりも尚長き、月と芦と四羽の雁。 |
山陽 | あの趙子壁の一軸を? |
中斎 | 献じませうか。 |
山陽 | いやこりや大酔を致したわい。 |
歌聞ゆ
花の木蔭に 誰やら居るわいな。 | |
格之 | こりやいとはしき絃歌の声。 |
中斎 | 少しく舟に棹さして、遡らうではござらぬか。 |
山陽 | それも一興、然らば御主人。 |
中斎 | (格之助に)船頭に申し付けい。 |
格之 | ハツ、これ船頭少し上手へやつてくれい。 |
船頭 | かしこまりました。 |
舟に棹している 此方より尾(屋?)形舟出づ。中に奉行門辺大和守、大米屋金右衛門、いづれも着流し、酒宴の躰、芸子仲居酌する船頭棹さす。> | |
大和 | 好い気持になつてまゐつた。 |
金右 | どうぞ十分お過し下さりませ。それお酌 |
仲居 | ハ――イ |
大和 | いやさう飲では此川へはまるかも知れぬわい。 |
芸一 | 私共が居りまする。 |
芸二 | お手をお取り申します。 |
大和 | 其方共が何の役、それよりは御主人ぢや。何と酔ふてもかまはぬかな。 |
金右 | かまはぬ段ではござりませぬ。百杯なりと千杯なりと、お酔ひなさるまでお進め申します。 |
大和 | それはかたじけない、然らば其気で飲むと致さう。先の跡を歌へ歌へ。 |
芸子歌ふ。
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大和 | ア月が出たか、舟が大分動く様ぢや。 |
金右 | それでは一寸附けませう。それ船頭。 |
船頭 | ヘイヘイ |
舟を下手の岸に附ける | |
金右 | (芸子等に)次手にそち等も上つて来い。少しお話がある程に |
芸一 | そんなら旦那さん、 |
二 | 一寸行つて |
二人 | まゐります。 |
二人を残して入る | |
金右 | さてお話しと申しまするは、此間の新田の事、どうぞ五千両でお払下は願へませぬか。 |
大和 | 五千両――五千両とは安いものぢやが――そこはこれ此方の事、まゝよろしい承知致した。 |
金右 | それは難有う存じます。それからも一つお伺ひますは、近日の此不作、今歳も不順でござります故、秋が思ひやられます。若し飢饉にでもなりましたら、どうなされます思召で。 |
大和 | それは何とも云はれぬが、用意米は十分なり、出せば出せぬ事もなし、しかし江戸の模様もあり、市中の工合でそこはまた、思案をしまいものでもござらぬ。 |
金右 | そんなら一つ調べまして、改めて申して出ます何分よろしう此後とても。 |
大和 | 呑込だ呑込だ兎角酒には肴ぢやて。 |
金右 | そこに、ぬかりは致しませぬ。これは明石の桜鯛、花は散つても残る実を、御賞翫下さりませ。 |
金包を出す | |
大和 | (懐に入れ)実とは結構花に無用、これで一杯重ねやうか。 |
芸子仲居船頭出て来る。 | |
皆 | もうおよろしうござりますか。 |
金右 | 丁度好い、お酌ぢやお酌ぢや |
仲居 | ハーイ |
*** | 皆舟に乗る |
金右 | また船を出してくれい。 |
船頭 | かしこまりました。 |
中流に出す。上手より大塩の舟帰り来る。磨れ違う。月明。身投の音、 | |
双方 | あの音は? |
皆顔を出す。互に見合す。 | |
中斎 | やこれは! |
門辺障子を閉づ。 | |
格之 | 確にお奉行。 |
山陽 | エ? |
五郎兵衛流れ来る、大塩の舟に寄る、 | |
中斎 | (引上げ)イヤ我等もこれは罪人ぢやわい。 |