高安 月郊(1868-1944) 金港堂書籍 1902 より
*** | 正面の壁に日課を掲示す、
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一生 | (朗吟す)
海内何州当此品 屠販豪侠堕地異 腹貯五洲水【水念】々(しんしん) |
二生 | これ君、止め給へ止め給へ まだ日課も済まぬ内、大きな声で詩を吟するとは、打たれるのを覚悟ぢやな。 |
一生 | なに打たれる訳はない。僕はけさから伝習録三巻共通読した。 |
三生 | 嘘を云へ嘘を云へ 十行一目に読だとて、さう早くしまへるものか。 |
一生 | それは君等とは違うわい。飽くまで腹に這入つて居るから本をあけいでも読む所が、取りも直さず知行合一。 |
四生 | ハゝゝゝ例の駄洒落に閉口々々 |
一生 | それに今の摂州の歌は、先生の無二の知己、三十六峰外史の作ぢや、よし先生に聞えたとて、立腹せらるゝ筈はない。 |
二生 | ほんに山陽先生も惜しい事に無くなられた。内の先生も取りあへず、三本木へかけつけられたが、僅の事で間に合はず、落胆して帰られた、それからの塞ぎ様、 |
三生 | いやありや そればかりぢやない。昨今の飢饉の事で、お奉行へ建議せられたが、少しも用ひられぬ故、それで思案をせられるのぢや。 |
四生 | また今のお奉行は前のと違ひ無能の人物、先づ近年では矢部駿州、其前の高井山城。 |
二生 | 高井の時分は先生も、殊の外用ひられ、兵庫から大阪中、事実支配をなされたが、功成り名遂げ身退き、尚世を思ふ御赤心。 |
三生 | 聞けば大米屋始め金持へ、金を借りに行かれし由。 |
四生 | それで分つた 下女下男を皆いなしておしまひなされ、奥様が飯焚に、先生の自身庭掃除。これでは僕等も見て居られぬ、何なとせにやならぬでないか。 |
一生 | 君は川流を汲め我は薪を拾はんか。 |
二生 | いやてんごぢやない本間の事ぢや。柄に応じて役を割らう。先づ僕は玄関から、座敷の方を引受ける。 |
三生 | それでは僕は学堂掛、塾は君の役目ぢやぞ。 |
四生 | いや僕はお使役、豆腐屋でも八百屋でも、菓子屋最得意の所、君は定めて酒屋であらう。 |
一生 | いや僕は唯飲む役ぢや、(又朗吟)
海内何州当此品 |
瀬田済之助、庄司儀左衛門、平山助次郎、大井正一郎 いづれも羽織袴、外より入り来る。 | |
二生 | これはこれは お揃ひにて。 |
済之 | 先生はな? |
三生 | 書斎においでヾござります。 |
儀左 | 一寸お取次き下されい。 |
四生 | かしこまりました。 |
正一 | いやなに方々、承はれは先生には、此度下部(しもべ)をお出しなされ、薪水の労を御自身になさるゝと云ふ事ぢやが、其通りでござるかな。 |
一生 | 左様でござります、今も我々まで役割をきめる最中、 |
儀左 | 恐れ入つたる御はからひ、感涙を催し申す。 |
助次 | いや日頃の御気象では其筈でござらうか。 |
済之 | して金子は調ひましたか。> |
三生 | 詳しうは存じませぬが、どうやらまだらしうござりまする。 |
儀左 | なにまだ? |
正一 | いやべんべんと何隙(ひま)取り、一日とて猶予せられぬ、市中の様子は益(ますます)逼迫。 |
済之 | こりや早うお目にかゝりたいものぢやわい。 |
格之助奥より出づ。 | |
格之 | これは方々、父は唯今陽明先生を祭るとて、其文章を起草の半(なかば)、先づこなたへお通り下され。 |
儀左 | なに陽明先生をお祭りとな。 |
格之 | されば、学ある者は気力無く、気力ある者は学無き中に、先生独り学あり気あり。賊を討ち世を開き、行(かう)を尊び知を明(あきらか)にし、聖賢にしてまた豪傑。憾むらくは響絶え、我邦にては唯一筋、一斎翁すら心のみ、口には憚る腑甲斐なさ。恰も迫る昨今の危急に愈々感激なし、不朽の英霊祭り申す。 |
儀左 | 何さまこれは適切ぢやなあ。 |
宇津木矩之丞、若党友蔵つれ旅装束にて出づ。 | |
友蔵 | (玄関にて)頼まう。 |
一生 | どーれ。 |
出る | |
矩之 | 宇津木矩之丞でござる。 |
一生 | はあ(此方へ来りて)宇津木矩之丞殿が見えました。 |
済之 | 何宇津木、 |
儀左 | めづらしい矩之丞殿、 |
格之 | 早々これへ通すがよい。 |
一生 | ハツ(玄関へ出でゝ)お通りなされ。 |
矩之 | 御免。(草鞋を解きて上り)ヤこれはいづれもお揃ひにて、 |
格之 | 先々御無事、 |
五人 | 重疂々々 |
矩之 | して先生には? |
格之 | 父も恰も在宿致せば、いざ此方へ、いづれもにも。 |
矩之 | 然らば方々、 |
済之 | いや先づお先きへ、 |
矩之 | 御免下され。 |
皆上手へ入る |