Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.5.31訂正
2000.5.1

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大塩の乱関係論文集目次

高安月郊「大塩平八郎」目次


「大 塩 平 八 郎」その8

高安 月郊(1868-1944)

金港堂書籍 1902 より



◇禁転載◇

第三段  其二 同 台所



***
正面障子立切り、前に竃あり、上手に井戸あり。其向庭へ出る戸口あり。下手に表より入来る中の戸口あり。

  中斎妻ゆう手拭をかぶり手襷をかけ、水を汲む。

ゆう馴れぬ事とて一杯の水を汲むにも此通り、裾から袖をぬらしました。こんな事では下女にも及ばぬ。よう今まで使ふた事ぢやなあ。(釜の下を焚きつける)アゝ烟たい目が痛む。したが此烟さへ上げ兼ねる者も多い時節、三度の御飯をいつもの通り、戴くのも勿躰ない。どれ昼の余りを結びにして、ひもじい者にやりませう。
  美好五郎兵衛、染物屋の躰、みねをつれて表より入来る。
五郎御免下さりませ。奥様にお目にかゝりたう存じまする。
ゆうオゝ五郎兵衛さん。久しう見えませなんだなあ。
  手拭を取る
五郎ヤ奥様。これは失礼致しました。ほんに承はりましたが、御自身に御飯ごしらへとは勿躰ない、今更涙がこぼれます。
ゆう何の何の 世間の事を考えたら、当り前でござります。そしてまたおみねにはどうして戻つて来やつたのぢや。
五郎さあ昨日帰つてまゐりまして、今度残らずお召使へお暇が出たと申します故、それは何をいふ。そちは外の者と違う、命ばかりか家も立ち、今の暮しも出来る様、何から何まで御恩を受けた、お礼心に上げた躰、さういふ事ならこれからは、皆の事を一人して働かねばならぬ所と、叱つてつれてまゐりました。どうぞ以前に変りませず、お使ひなされて下さりませ。
ゆうそれは親切に、かたじけなう思ひますが、おみねは殊に仔細もあり、
みねエイ。
ゆう旦那様から御自身に、お掃除をなさる位、台所は私の役、何でもない事でござります。
五郎いえいえそれでは済みませぬ。私の御恩は別にして、多くの人の御師範なされ、広い世間に類少ない先生様、海山の珍味を差上げ、金銀の家にお住ませ申し、綾錦を着せましても、まだ足らぬお身の上、それにかう申すと失礼ながら、お邸とて此通り、賎しい業を御自身に、奥様まで御飯たき、何たる事でござります。世の町人百姓でも、何十人の召使、日毎の珍膳 蜀江の錦を不断着て居ります。こんな間違うた事はござりませぬなあ。
ゆうそれは私も日頃から、思ふたばかり云ひませぬが、物も知らず技も無く愚者でも栄耀栄華、それ羨むではなけれども、折ふし不足のある時は、つい愚痴の出るもの 旦那様に申上げても、一返に叱られますが、捨てゝ置かれぬ台所、まだ烟は絶さねど、家禄までお出しなされ、返す時はとても無い、大金をお借りなされ、此後(のち)何となる事かと、寝られぬ時もござります。
五郎ほんにそれも承はりました、情知らぬ大米屋、何の唯出しませう。先で何を云ふかも知れず、こりや御安心が出来ませぬな。
ゆう心ある者は力無し、力ある者は心無し、何としてかう違うやら。私が若しお奉行か、将軍様か神様か、思ふ様になつたなら、正しい人賢い人には、禄もやり、褒美もやり、愚者(おろかもの)悪者は下部(しもべ)の役を当て様に、夢にも出来ぬ此世の中、高楊枝の味はつらいものでござります。
五郎御尤でござります、ほんにほんに 分らぬ世の中、せめて私共の心だけ、これからはお掃除に、朝晩私が参ります。台所向は此娘、一切おさせ下さりませ。どれお庭からはきませう。箒はどこぢや手桶が見えぬ。これ御飯が吹て来た。(みねに)エイぐづぐづと何して居る。早う手襷(たすき)をかけんかい。手襷が知れずば肩でも脱げ。
二女ホゝゝゝゝ
五郎どれ、御免なされませ。
  裾をかゝげて庭口へ入る
ゆう五郎兵衛さんの親切な、いつも喜で居ますわいな。
みね気ばかりいらいら致しまして、お役には立ちませぬ。
ゆうしたがそなたはどうしても帰つて貰はにやなりませぬ。
みねそりやまたなぜでござります、
ゆう訳はそなたに覚えがあらう。
みねエイ
ゆう旦那様はあの通り、万事厳しいお方なり、殊に多くの書生の手前、一汐心をつけねばならぬ。それに万一人目につき、表向となつたなら、義理にも捨てゝは置かれませぬ。おなさけは厚うても、それに引かれぬ御気象では、どう御所置をなさらうやら案じられてなりませぬ。幸今度の総お暇、これを汐に引下り、しばし遠ざかつて居る内には、折を見てお願ひ申し、世間晴れてそへる様、はからふて上げる故、今の所を謹で、一先づ内へ帰つて下され。
みねお叱りもなく其お言葉、申し様もござりませぬ。したが賎しい私風情、とても望はござりませぬ。
ゆういや仮令(たとひ)身分は違うても、心は違はぬそなた親子、其心こそ何よりぢや。侍でも大名でも、心違へば穢多同然、そこの所は心配せず、私に任して置きやいなう。
みね難有う存じます。
  格之助奥より出づ。
格之母様母様(みねを見て)ヤこれは――イヤ父上が召しまする。
ゆうそんなら後程、ゆつくり遊んで行きやいなう。
  奥へ入る
格之これおみね、どうしてまた戻つて来たのぢや。
ゆうさあお聞きなされませ。一旦内へ帰りましたら、父様(とゝさま) が済まぬといふて、一所に唯今参りました。
格之そしてまた居るになつたか。
みねいえいえ矢つ張居られませぬ。二人の中を奥様が、よう御存じでござ ります。
格之なに御存じ、どうしてそれは?
みねどうしてお目に留つたやら、事を分けてのお諭しに、私や顔が上げられませなんだわいなあ。
格之してどうぢやこれぎりに、別れてしまへとおつしやつたか。
みねいえ今暫く遠ざかつたら、其内に旦那様へ願ふてやると仰しやりまし た。
格之なに父上へ――フム――
みね何を済まぬお顔付、あなたはお厭でござりますか。
格之それでも人の思わくや、第一父上に面目ない。
みねそんなら添ふ気はござりませぬか。
格之無い事は無けれども、所詮お許しある筈もなし、お叱りを受けるばかり。
みね矢つ張望はござりませぬか。
  泣く
格之いや、しかし母様が其お心では、またどうかなるであらう。
みねいえいえ望はござりませぬ。始から其覚悟、あきらめて居りまする。唯一つお願ひは 時々お顔が見られる様――
格之エイどうかなると云ふに。
みね私ばかりぢやござりませぬ、見せたいものも出来ます故、
格之さてはそなたは――
  ゆう 五郎兵衛左右より伺ふ。
みねおはづかしう存じます。
  俯むく
格之こりやどうしたら好からうなあ。
ゆう(前へ出でゝ)御飯はもう出来ましたか。
みねオゝまだ移しも致しませぬ。
五郎(出でゝ)役に立たぬ不束者、つれてまゐつて結句お邪魔、お叱りない中下りませう。
ゆういやまだ話したい事もあり、まあゆつくりと夕飯でも――
五郎どうしてゆつくり出来ませう。知らぬ事とて済みませぬ。
ゆういや知らねば済まぬ今の事。
格之エイ。
ゆう私も篤と思案して、好い様にはからひませう。
みね難有い其お言葉、どうぞお願ひ――
五郎エイ阿呆め、何云ふのぢや。若し先生様のお耳へ入つたら――
ゆう何の入れて好いものか、そこにぬかりはありませぬわいなあ。
五郎重々のお志、イヤ此五郎兵衛も一思案、活きかへつた上からは、まだ命がござります。若旦那、
格之エ、
五郎何とか工夫致しませう。
ゆうそんなら重ねてとつくりと、
五郎こりや御面倒でござりました。


高安月郊「大塩平八郎」目次その1(登場人物)/その7その9

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