*** | 正面障子立切り、前に竃あり、上手に井戸あり。其向庭へ出る戸口あり。下手に表より入来る中の戸口あり。
中斎妻ゆう手拭をかぶり手襷をかけ、水を汲む。 |
ゆう | 馴れぬ事とて一杯の水を汲むにも此通り、裾から袖をぬらしました。こんな事では下女にも及ばぬ。よう今まで使ふた事ぢやなあ。(釜の下を焚きつける)アゝ烟たい目が痛む。したが此烟さへ上げ兼ねる者も多い時節、三度の御飯をいつもの通り、戴くのも勿躰ない。どれ昼の余りを結びにして、ひもじい者にやりませう。 |
| 美好五郎兵衛、染物屋の躰、みねをつれて表より入来る。 |
五郎 | 御免下さりませ。奥様にお目にかゝりたう存じまする。 |
ゆう | オゝ五郎兵衛さん。久しう見えませなんだなあ。 |
| 手拭を取る |
五郎 | ヤ奥様。これは失礼致しました。ほんに承はりましたが、御自身に御飯ごしらへとは勿躰ない、今更涙がこぼれます。 |
ゆう | 何の何の 世間の事を考えたら、当り前でござります。そしてまたおみねにはどうして戻つて来やつたのぢや。 |
五郎 | さあ昨日帰つてまゐりまして、今度残らずお召使へお暇が出たと申します故、それは何をいふ。そちは外の者と違う、命ばかりか家も立ち、今の暮しも出来る様、何から何まで御恩を受けた、お礼心に上げた躰、さういふ事ならこれからは、皆の事を一人して働かねばならぬ所と、叱つてつれてまゐりました。どうぞ以前に変りませず、お使ひなされて下さりませ。 |
ゆう | それは親切に、かたじけなう思ひますが、おみねは殊に仔細もあり、 |
みね | エイ。 |
ゆう | 旦那様から御自身に、お掃除をなさる位、台所は私の役、何でもない事でござります。 |
五郎 | いえいえそれでは済みませぬ。私の御恩は別にして、多くの人の御師範なされ、広い世間に類少ない先生様、海山の珍味を差上げ、金銀の家にお住ませ申し、綾錦を着せましても、まだ足らぬお身の上、それにかう申すと失礼ながら、お邸とて此通り、賎しい業を御自身に、奥様まで御飯たき、何たる事でござります。世の町人百姓でも、何十人の召使、日毎の珍膳 蜀江の錦を不断着て居ります。こんな間違うた事はござりませぬなあ。 |
ゆう | それは私も日頃から、思ふたばかり云ひませぬが、物も知らず技も無く愚者でも栄耀栄華、それ羨むではなけれども、折ふし不足のある時は、つい愚痴の出るもの 旦那様に申上げても、一返に叱られますが、捨てゝ置かれぬ台所、まだ烟は絶さねど、家禄までお出しなされ、返す時はとても無い、大金をお借りなされ、此後(のち)何となる事かと、寝られぬ時もござります。 |
五郎 | ほんにそれも承はりました、情知らぬ大米屋、何の唯出しませう。先で何を云ふかも知れず、こりや御安心が出来ませぬな。 |
ゆう | 心ある者は力無し、力ある者は心無し、何としてかう違うやら。私が若しお奉行か、将軍様か神様か、思ふ様になつたなら、正しい人賢い人には、禄もやり、褒美もやり、愚者(おろかもの)悪者は下部(しもべ)の役を当て様に、夢にも出来ぬ此世の中、高楊枝の味はつらいものでござります。
|
五郎 | 御尤でござります、ほんにほんに 分らぬ世の中、せめて私共の心だけ、これからはお掃除に、朝晩私が参ります。台所向は此娘、一切おさせ下さりませ。どれお庭からはきませう。箒はどこぢや手桶が見えぬ。これ御飯が吹て来た。(みねに)エイぐづぐづと何して居る。早う手襷(たすき)をかけんかい。手襷が知れずば肩でも脱げ。 |
二女 | ホゝゝゝゝ |
五郎 | どれ、御免なされませ。 |
| 裾をかゝげて庭口へ入る |
ゆう | 五郎兵衛さんの親切な、いつも喜で居ますわいな。 |
みね | 気ばかりいらいら致しまして、お役には立ちませぬ。 |
ゆう | したがそなたはどうしても帰つて貰はにやなりませぬ。 |
みね | そりやまたなぜでござります、 |
ゆう | 訳はそなたに覚えがあらう。 |
みね | エイ |
ゆう | 旦那様はあの通り、万事厳しいお方なり、殊に多くの書生の手前、一汐心をつけねばならぬ。それに万一人目につき、表向となつたなら、義理にも捨てゝは置かれませぬ。おなさけは厚うても、それに引かれぬ御気象では、どう御所置をなさらうやら案じられてなりませぬ。幸今度の総お暇、これを汐に引下り、しばし遠ざかつて居る内には、折を見てお願ひ申し、世間晴れてそへる様、はからふて上げる故、今の所を謹で、一先づ内へ帰つて下され。 |
みね | お叱りもなく其お言葉、申し様もござりませぬ。したが賎しい私風情、とても望はござりませぬ。 |
ゆう | いや仮令(たとひ)身分は違うても、心は違はぬそなた親子、其心こそ何よりぢや。侍でも大名でも、心違へば穢多同然、そこの所は心配せず、私に任して置きやいなう。 |
みね | 難有う存じます。 |
| 格之助奥より出づ。 |
格之 | 母様母様(みねを見て)ヤこれは――イヤ父上が召しまする。 |
ゆう | そんなら後程、ゆつくり遊んで行きやいなう。 |
| 奥へ入る |
格之 | これおみね、どうしてまた戻つて来たのぢや。 |
ゆう | さあお聞きなされませ。一旦内へ帰りましたら、父様(とゝさま)
が済まぬといふて、一所に唯今参りました。 |
格之 | そしてまた居るになつたか。 |
みね | いえいえ矢つ張居られませぬ。二人の中を奥様が、よう御存じでござ
ります。 |
格之 | なに御存じ、どうしてそれは? |
みね | どうしてお目に留つたやら、事を分けてのお諭しに、私や顔が上げられませなんだわいなあ。 |
格之 | してどうぢやこれぎりに、別れてしまへとおつしやつたか。 |
みね | いえ今暫く遠ざかつたら、其内に旦那様へ願ふてやると仰しやりまし
た。 |
格之 | なに父上へ――フム―― |
みね | 何を済まぬお顔付、あなたはお厭でござりますか。 |
格之 | それでも人の思わくや、第一父上に面目ない。 |
みね | そんなら添ふ気はござりませぬか。 |
格之 | 無い事は無けれども、所詮お許しある筈もなし、お叱りを受けるばかり。 |
みね | 矢つ張望はござりませぬか。 |
| 泣く |
格之 | いや、しかし母様が其お心では、またどうかなるであらう。 |
みね | いえいえ望はござりませぬ。始から其覚悟、あきらめて居りまする。唯一つお願ひは 時々お顔が見られる様―― |
格之 | エイどうかなると云ふに。 |
みね | 私ばかりぢやござりませぬ、見せたいものも出来ます故、 |
格之 | さてはそなたは―― |
| ゆう 五郎兵衛左右より伺ふ。 |
みね | おはづかしう存じます。 |
| 俯むく
格之 | こりやどうしたら好からうなあ。 |
ゆう | (前へ出でゝ)御飯はもう出来ましたか。 |
みね | オゝまだ移しも致しませぬ。 |
五郎 | (出でゝ)役に立たぬ不束者、つれてまゐつて結句お邪魔、お叱りない中下りませう。 |
ゆう | いやまだ話したい事もあり、まあゆつくりと夕飯でも―― |
五郎 | どうしてゆつくり出来ませう。知らぬ事とて済みませぬ。 |
ゆう | いや知らねば済まぬ今の事。 |
格之 | エイ。 |
ゆう | 私も篤と思案して、好い様にはからひませう。 |
みね | 難有い其お言葉、どうぞお願ひ―― |
五郎 | エイ阿呆め、何云ふのぢや。若し先生様のお耳へ入つたら―― |
ゆう | 何の入れて好いものか、そこにぬかりはありませぬわいなあ。 |
五郎 | 重々のお志、イヤ此五郎兵衛も一思案、活きかへつた上からは、まだ命がござります。若旦那、 |
格之 | エ、 |
五郎 | 何とか工夫致しませう。 |
ゆう | そんなら重ねてとつくりと、 |
五郎 | こりや御面倒でござりました。 |
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