Я[大塩の乱 資料館]Я
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「大塩の乱関係論文集」目次


大 塩 平 八 郎

高安月郊(1868-1944)

『上方 第97号 上方義民号』 上方郷土研究会編 創元社 1939.1 所収

◇禁転載◇

 管理人註
   

 彼を筆にしてから三十余年、久々で彼を思ふと様々の聨想が浮ぶ。
 先づ彼を悲劇に書き出したのは明治三十三四年、京の三本木の瓢箪路次の奥に寓居した頃。其前東京で人生観の煩悶から労働者になり、社会問題に当面する人物を主人公とした「金字塔」を小説体に書いたが出す所が無く、自分も行きつまつて去り、中国九州まで放浪の末彼所に足を留めたので、隣は頼山陽の水西草堂であつた。私は詠史より先づ中斎を採つたのは実生活の悩みが抜けなかつたからで、然も山紫水明処でとはおのづから縁があつた。
 中斎と山陽とは始め相容れぬ様であつた。然し逢ふより先、山陽が大阪へ来た時、彼はそれと聞いて
   高楼に上つて巨鐘を撞くに非ずば
   桑楡日暮れて尚留夢
 と一絶句を賦したのは山陽に望んだのか、自分にか、巨鐘とは何の意、よもやまだ後の火を予想もしなかつたであらうが警醒の意は早く表はれた。其後会見して、彼は山陽の学より胆と識があるのを取つた。山陽は彼の独立不撓、一吏として百余年来の弊を克治するのを取つた。それから彼は陽明全集を貸したり、未刻の「洗心洞剳記」を見せると、山陽は未発表の「日本外史」を内見させた。
 然し山陽は陽明を読んでも、儒か仏かは論ぜす、文章に古声の多いのを喜ぶとは真に解得しなかつたらしい。彼に哲学的の所は欠けてゐた。中斎は堂々陽明学を掲げて憚からず、古英雄を空想するより、兎角実感して、或時斎藤拙堂が伊勢から来訪すると、大阪陣の古跡、八尾、久宝寺、千塚などへ案内して、
  「或は涕を拭、或は気を振候事共に御座候」
 と人への文に書いた。彼はそも何に泣いたのか、豊臣の滅亡にか、徳川の惨酷にか、真田、後藤、木村等の絶望でも苦戦した意気にか。

    「古今の英雄豪傑多く情欲の上より做来る、即ち驚天動地の大功業要するに夢中の伎倆のみ」

 と剳記に云ひながら、

    「扨々人は動き易きものに御座候動き易き腹を以聖人太虚之義は難うものと常々嘆息仕候」

 彼は到底太虚に帰するには情熱があり過ぎた。然もそこに人間味があるのである。

    「人の厄難を救ふ時吾霊淵に一波動くか否かを験せよ、一波纔に動かは則ち既に情欲の在るあり、天体に非ず、天体に非ずば則ち救はさるの愈れるに如かず」

 然も天保八年の飢饉、奉行に説いて用ゐられず、富豪に説いて聴かれず、蔵書を売つて自分の手で救つたのは理知より深い人情の動きであつた。それも奉行に叱責されて、誰も追随せぬので、彼の怒りは爆発、愛の裏に憎があるからは、怒りも本能の底から突発して制せられぬものである。それも天体で無い事は無い。天にも暴風はある。落雷はある。彼は其前年甲山に登つて深思したのは何であつたか。大坂城を攻め落す気は固より無かつたにちがひない。富家を焼いた所で直建てかへるのは知れてゐる。其心を一撃して貧欲を焼かうとしたのであらう。其為には吾身を殺すのが仁か、義か、天道の積りが人情の猛炎となつたのであらう。
 彼が真先にさしかざした旗には「天照皇大神宮」を中に「八幡大菩薩」と「湯武聖王」と左右に書いたのは和漢を合はせたが、民衆に通じたか。堺筋で一戦、淡路町と瓦町から打ち合つて直に散乱したが、どれだけ効果があつたか。火は百十二町三千三百軒を焼いたが、貪欲は焼けたか。人間の心は洗はれたか。家を失つた貧民は彼を恨まず、後まで「先生」と云つたといふ。また其子弓太郎が翌年佐渡へ流されたのを涙で送つた者が数百人あつたと、いふ。また越後の柏崎へ飛火して、其三月後、国学者生田万が同志十五人と富豪四軒、代官所を襲ひ、火をかけた。然し衆寡敵せず、海辺に退却して自殺した。これもかれと似かよふ気質を変化出来ず、失敗と知りつゝ止むに止まれなかつたのである。
 然し彼等は一夜の火と消滅しなかつた。此問題は容易に解けず物質と心の葛藤は陽明でも、達磨でも、プラトウでも、マルクスでも解決出来ぬのである。
 私の祖父香川琴橋は彼と交はりがあつて、其夜暇乞に来たのを横堀まで送つたといふが、それはどうか。私が彼の悲劇を始めて舞台へかけたのは三十五年十二月、京の夷谷座で、翌年一月大阪の弁天座でも出した。平八郎を勤めたのは福井茂兵衛で、あの長い独白をやつてのけたのは彼一代の手柄として好い。片岡仁左衛門にもまはしたが、あれには手が出ず、参考にして中村宗十郎のやつたものをつとめたが、それは彼の事件の表面を撫でたものに過ぎなかつた。福井も其外の役々を勤めた俳優も皆無くなつた。単行本として出した私の曲も今では稀観書になつた。私は東の震災に大阪へ帰つて一日香川家を訪ひ、思ひもよらず琴橋の肖像を見た後、天満へまはつて元の与力町に中斎の跡を尋ねると、小家がちの中に女学校が建つてゐた。洗心洞は女学校にあつてどんな心を洗ふか。其後寺町に祖父の墓参のついで成正寺に彼の墓を叩くと、門を入るなり直にあるのは後に建てたので、彼の骨はどこに?中国を経て海外へ遁れたといふ異説もあつたが、それは兎に角彼の心は彼自身にも解けなかつた天体に正解を求めてゐよう?

  【大塩平八郎施行引札 略】

























































『洗心洞箚記』
その82

















『洗心洞箚記』
その7

























































香川琴橋
(1794〜1849)
江戸時代後期
の儒者、
著作に
「浪華名勝帖」
 


管理人註
 文中の女学校は、大正5年4月5日開校(校舎は翌年12月22日落成)の「北区実科女学校」のことか。大阪市に払い下げを受けた泉布観敷地内に建つ。大阪市立実科女学校、大阪市立桜宮高等女学校、大阪市立桜宮高等学校となり、都島区毛馬に移転している。(大阪市立桜宮高等学校『80年の歩み』1988 より)


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