Я[大塩の乱 資料館]Я
2018.1.7

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎の変」その2

竹越与三郎(1865-1950)

『日本経済史 第6巻』 日本経済史編纂会 1920 所収

◇禁転載◇

第十一章 家斉時代

  大塩平八郎の変(2)

管理人註
  

此時、大阪の与力に大塩平八郎なるものあり。陽明派の学を奉じて、自ら中 斎と号し、多くの門下生を有せしが、其人となり、剛偏、峻狭なりしが、治 獄の術に長じ、町奉行矢部駿河守定謙の用うる所となりて、数ば大獄を断じ て声名あり。定謙が大阪を去るや、後任の奉行跡部山城守良弼を戒めて、大 阪に大塩平八郎あり、若し能く之を操縦するを得ば、過なきを得べしと云ふ。 已にして良弼大阪に至りて、平八郎を見るも、其人となりを軽んじて、用う る所なし、平八郎之より退きて、学校を立て、洗心洞書院と号して、書生を 集めて書を講ぜしが、今天下凶荒、兇民四方に起るに方り、大阪町奉行の為 す所、窮民を救助するの道を講ぜず、冷然として事なきが如くなるを見て、 憤慨に堪へず、富豪を説きて救助せしめんと企てしも、已に権力なき平八郎 の説を聴きては、また顧る所なし。平八郎乃ちまた之を以て、奉行に迫るや、 奉行は、江戸に上申して、其裁可を受けて後にせんと云ふ。平八郎、国家の 急に方りて、かゝる尋常の手続を省るの暇なし、宜しく責を負うて断ずべし。 是れ身を殺して、仁を為すものなりと云ふも、奉行また顧ず、平八郎大に憤 慨し、好し然らば余自ら、身を殺して仁を為すべしと云ひ、乃ち一切の蔵書、 器具を売り、米を買つて窮民を救助し、米を与ふる時、天満天神両橋の辺に 火災あらば、急に来るべしと告ぐ。斯くて門弟同心、徒党数十人と共に、銅 砲、木砲四個を作り、天照大神、武王、徳川家康の四旗を作りて、幕府の腐 敗官吏の姦私を責め、下民の為めに義を起すと云ふ左の檄文を四方に発し、 先づ火を放つて、己の家を焼き、次いで四方に火を放ち、天神橋を焼き、鴻 池、三井以下の富豪を砲撃し、窮民と農夫とを騙りて、勢に乗じて大阪城に 向はんとす。







数(しばし)ば


平八郎の上官は
高井山城守、
矢部駿河守は
天保4〜7年
西町奉行在職、
平八郎はすでに隠退、
矢部の後任は
堀伊賀守
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