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此時、大阪の与力に大塩平八郎なるものあり。陽明派の学を奉じて、自ら中
斎と号し、多くの門下生を有せしが、其人となり、剛偏、峻狭なりしが、治
獄の術に長じ、町奉行矢部駿河守定謙の用うる所となりて、数ば大獄を断じ
て声名あり。定謙が大阪を去るや、後任の奉行跡部山城守良弼を戒めて、大
阪に大塩平八郎あり、若し能く之を操縦するを得ば、過なきを得べしと云ふ。
已にして良弼大阪に至りて、平八郎を見るも、其人となりを軽んじて、用う
る所なし、平八郎之より退きて、学校を立て、洗心洞書院と号して、書生を
集めて書を講ぜしが、今天下凶荒、兇民四方に起るに方り、大阪町奉行の為
す所、窮民を救助するの道を講ぜず、冷然として事なきが如くなるを見て、
憤慨に堪へず、富豪を説きて救助せしめんと企てしも、已に権力なき平八郎
の説を聴きては、また顧る所なし。平八郎乃ちまた之を以て、奉行に迫るや、
奉行は、江戸に上申して、其裁可を受けて後にせんと云ふ。平八郎、国家の
急に方りて、かゝる尋常の手続を省るの暇なし、宜しく責を負うて断ずべし。
是れ身を殺して、仁を為すものなりと云ふも、奉行また顧ず、平八郎大に憤
慨し、好し然らば余自ら、身を殺して仁を為すべしと云ひ、乃ち一切の蔵書、
器具を売り、米を買つて窮民を救助し、米を与ふる時、天満天神両橋の辺に
火災あらば、急に来るべしと告ぐ。斯くて門弟同心、徒党数十人と共に、銅
砲、木砲四個を作り、天照大神、武王、徳川家康の四旗を作りて、幕府の腐
敗官吏の姦私を責め、下民の為めに義を起すと云ふ左の檄文を四方に発し、
先づ火を放つて、己の家を焼き、次いで四方に火を放ち、天神橋を焼き、鴻
池、三井以下の富豪を砲撃し、窮民と農夫とを騙りて、勢に乗じて大阪城に
向はんとす。
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数(しばし)ば
平八郎の上官は
高井山城守、
矢部駿河守は
天保4〜7年
西町奉行在職、
平八郎はすでに隠退、
矢部の後任は
堀伊賀守
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