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天保八年の二月十九日、済世救民の名の下に大阪に一揆的暴動を起し
て砲火を市街に放つたが、脆くも忽ち大敗して遁竄し、やがて捕吏の知
る所となり、自殺した大塩中斎の人物に就いては、種々の説もあるが、
こゝには聊か医学上より観た私見を述べて、大方識者の指教を仰がうと
思ふ。
抑々中斎は人の知るが如く、陽明学者として有名なる儒家であり、ま
たその友人には頼山陽、佐藤一斎、斎藤拙堂等の名家があつて、是等の
人々より畏敬せられ、且つ著書にも『大学刮目』『洗心洞剳記』等の如
き立派なものがあるから、固より智力に秀でた俊才であつたことは明か
である。但し数の観念に至つては、甚だ乏しかつたと見えて、自身の祖
父及び父母の死んだ命日を間違へ、またその与力の職を辞した年をも取
違へてゐる。即ち中斎自身の撰した祖父政之丞の墓碑には、その死んだ
日を文政元年六月二日と記してあるが、その実は同年六月朔日であり、
また父母の死んだ年に就いても、佐藤一斎に与へた書簡のうちに『父母
は僕七歳の時倶に歿す』とあるが、しかしこれにも一年の違ひがある。
また同じく一斎に与へた手紙に、三十八歳にして職を辞したと書いて居
るが、辞職した時の詩の序には三十七歳にして辞職すとあるが如き間違
がある。是に由つて之を観ると、中斎は文学及び政治の方面には非凡の
才能を有せるにも拘はらず、数学的能力に至つては甚だ貧弱であつたこ
とが推察し得られる。
彼は智力に長ずると共に、意志もまた甚だ強く、剛直果断、人の容易
に為し能はざることをも断行して、良吏の名を得たことは周知の事実で
ある。彼が与力在職中に世人を驚嘆せしめた事蹟は、妖巫豊田貢を捕へ
て之を刑戮したこと、奸吏弓削新左衛門の私曲非行を摘発して詰腹を切
らせたこと、破戒僧数十人を捕縛して遠島に追放したこと等であつて、
その勢威を憚らず、後患を慮らずして、職務を断行した剛直峻邁の行動
は、彼の意思が如何に強固であつたかを具体的に証明するものである。
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遁竄
(とんざん)
逃げかくれ
ること
幸田成友
「数字上の誤謬」
その2
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