Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.8.14

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「大塩の乱関係論文集」目次


医学上より観たる大塩中斎

その1

田中香涯

『現代社会の種々相』日本精神医学会 1924 所収

◇禁転載◇

医学上より観たる大塩中斎(1)管理人註
   

 天保八年の二月十九日、済世救民の名の下に大阪に一揆的暴動を起し て砲火を市街に放つたが、脆くも忽ち大敗して遁竄し、やがて捕吏の知 る所となり、自殺した大塩中斎の人物に就いては、種々の説もあるが、 こゝには聊か医学上より観た私見を述べて、大方識者の指教を仰がうと 思ふ。  抑々中斎は人の知るが如く、陽明学者として有名なる儒家であり、ま たその友人には頼山陽、佐藤一斎、斎藤拙堂等の名家があつて、是等の 人々より畏敬せられ、且つ著書にも『大学刮目』『洗心洞剳記』等の如 き立派なものがあるから、固より智力に秀でた俊才であつたことは明か である。但し数の観念に至つては、甚だ乏しかつたと見えて、自身の祖 父及び父母の死んだ命日を間違へ、またその与力の職を辞した年をも取 違へてゐる。即ち中斎自身の撰した祖父政之丞の墓碑には、その死んだ 日を文政元年六月二日と記してあるが、その実は同年六月朔日であり、 また父母の死んだ年に就いても、佐藤一斎に与へた書簡のうちに『父母 は僕七歳の時倶に歿す』とあるが、しかしこれにも一年の違ひがある。 また同じく一斎に与へた手紙に、三十八歳にして職を辞したと書いて居 るが、辞職した時の詩の序には三十七歳にして辞職すとあるが如き間違 がある。是に由つて之を観ると、中斎は文学及び政治の方面には非凡の 才能を有せるにも拘はらず、数学的能力に至つては甚だ貧弱であつたこ とが推察し得られる。  彼は智力に長ずると共に、意志もまた甚だ強く、剛直果断、人の容易 に為し能はざることをも断行して、良吏の名を得たことは周知の事実で ある。彼が与力在職中に世人を驚嘆せしめた事蹟は、妖巫豊田貢を捕へ て之を刑戮したこと、奸吏弓削新左衛門の私曲非行を摘発して詰腹を切 らせたこと、破戒僧数十人を捕縛して遠島に追放したこと等であつて、 その勢威を憚らず、後患を慮らずして、職務を断行した剛直峻邁の行動 は、彼の意思が如何に強固であつたかを具体的に証明するものである。





遁竄
(とんざん)
逃げかくれ
ること













幸田成友
「数字上の誤謬」
その2


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