彼が知行合一を説く学者でありながら、世間態を繕つて心にないこと
をいふやうな人物であつたことは、与力辞職の際、友人佐藤一斎に与へ
た書簡の一節を見ても明かである。彼は在職時代、町奉行高井実徳の知
遇を受け、深く信任せられてゐたので、実徳が辞職すると共に、自身も
辞表を提出したのであるが、その表面は上官と進退を共にしたことだと
あるけれども、その裏面は、これ迄上官の信任を受けたがために、同僚
の猜疑嫉妬を買つたことを充分に知り抜いてゐるので、その反動が必ず
起つて到底永くその位置を保つことの出来ない事情を未然に洞察して辞
職したのである。然るにも拘はらず、彼は佐藤一斎に宛てた書状の中に。
『決然致仕して帰休す、徒らに人禍を恐れて然るにあらざるなり』と白々
しい事をいつてゐる。問ふに落ちずして語るに落つとはこのことである。
彼が慥かに人禍を恐れて辞職した形跡があることは疑ひもない事実であ
る(之に関する事実は、ここに必要なければ省略す)。要するに、彼が
見え透いた虚言を吐いて世間態を装ふ人物であつたことは、右の一事に
徴しても知られる。精神病性体質者に虚言癖のあることは周知の事実で
あつて、自己を高く偉く見せんがためには、屡々詭弁を弄するものであ
る。
上記の如く、彼を以て一の精神病性体質者としたならば、その暴動の
真相は容易に理解することが出来る。然るに今日に於ても、彼の挙兵を
以て、社会主義的理想に出たものであるとか、勤王の魁をなすために起
つたのであるとか説き立てゝ、大いに彼を持ち上げてゐる論者があるの
は、私共から観れば甚だ滑稽に感ぜられるので、茲にこの一篇を草した
次第である。
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