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挙兵の時機は、天保八年二月十九日と決した。それは奉行交迭から来
る混乱を利用しやとしたものらしい。ところがその一ケ月前一月十七日
に、同志の人、東組同心、平山助次郎、吉見九郎右衛門、河合郷左衛門
の三人は変心して逃亡した。
助次郎は、十七日夜、西町奉行跡部山城守役宅へ駆け込み密告をした。
九郎右衛門は、其忰英太郎、郷左衛門の倅八十次郎両名が、平八郎の
手許から檄文を一枚盗み取つて来たのに自筆の訴状を添へて、西町奉行
跡部山城守、堀伊賀守の役宅へ、十九日の朝七つ前に訴へさせた。十八
日の夜は、反逆者一味の東組与力瀬田済之助、小泉淵次郎の両人が当番
で、東役所に泊つて居たので、さりげなく之を用談の間に呼び出した。
気づいて遁れんとした淵次郎は斬り殺されたが、済之助は塀を越えて
大塩邸に駆けつけた。人夫は走つて同志は集められた。坐して死を待つ
よりは、逆に討つて出づべしと決して、俄に一同の部署は定められた。
そして、軍陣の血祭りとして、大塩の高弟であり、且つ此の叛逆の挙に
反対した宇津木矩之丞を屠殺した。合図の烽火として、洗心洞の邸宅に
火が掛けられた。総勢二百余、前備へは、長子格之助、中堅は大塩自身、
後備は、瀬田済之助であつた。準備期は一ケ月だけ早過ぎた。
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「しやとした」
「しやうとした」
の「う」が脱字か
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