市街戦はアツケなく終つた。焼失家屋三千三百八十九、明借家千三百
六戸、土蔵四百十一、穴蔵三、納屋二百三十、寺院十四、道場二十二、
神社三、神主並びに社家屋敷十戸と云ふ被害の莫大さに対して、戦らし
い戦はいくらもなかつた。
高池三郎兵衛、亀屋市十郎、鴻池善右衛門の富豪は、倉庫を発かれ、
金銀米穀を散乱せしめられた上、火を放たれた。三井、岩城、島田、内
田、平野等も同じく焚かれた。それにも関はらず戦らしいものは、殆ん
ど無かつた。
これは、大塩平八郎としては、陰謀露見の為に事の成らざるを悟つて、
せめては窮民を救ひ、富豪を懲らすことによつて目的の一部を達せんと
した為に、主力を権力者に向けなかつた為であらう。是に対して、幕府
方は、積極的に大塩等を討ち取る程の気力を持たなかつたものらしい。
唯消極的に守り防いだ跡が見える。天神橋の橋畔を撤したるが如き、主
として大砲の威力を恃んが如き、皆その卑怯さを物語つて居る。大塩の
軍兵とても等しく、意気地のあつたものとは受取れない。そこで、兵乱
は、戦士の死傷者の代りに、無生の家屋等の被害を多く数へたものであ
らう。幕府倒壊の約五十年前の武士としては、さもありなんと云つて置
かう。
しかし、その結果としては、細民は救済された。豪商どもは、間銀
(時価より安く売り払はせて其の差金を官より米屋に支払ふ事)を米商
に給与して廉売させ、又多額の寄附金を集めて、其秋の米価の下落迄、
全く市民の生活を維持する等、救済策は続出した。大阪の中枢を灰燼と
化した大塩平八郎を、「大塩様」と敬称した所以は、実にこゝにある。
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