|
この際動いたのは大阪城代の勢をはじめ、尼崎の一番手は家老用人目付
より足軽仲間に至る迄、三百三十人、二番手も略同様、別に大砲隊があつ
た。岩和田の一番手は、物頭大目付以下二百余人、二番手は四百余人、郡
山の一番手、二番手、三番手合計七百余人、其他淀藩、高槻藩等々。殊に
笑止なのは、京都所司台松平伊豆守が、大塩の残党丹波に隠るゝと聞いて、
亀岡、淀、郡山の三藩京都町奉行配下の兵に出兵を命じたことである。し
かも一人の大塩残党を捕縛しえず、大塩が大阪市内に隠れて居るのを発見
するのに、一ケ月余を費して居り、二人を捕へようとした時はすでに自害
した後であつた。
この点では、敢て乱を為した剛勇大塩の行為にもあきたらぬものがある。
陣を解く方法も余りに簡単であり、其後の遁走の経過に推し、隠れ家の生
活に徴して、かくの如き大事を挙げた人の行動としては、受取れぬところ
無しとしない。天保時代の武士精神の廃頽が、この義人官僚をも蠶触して
居たものとより受取れ得ないのである。
|
「大塩事件勃発
当時の「諸国要
塞ノ警備」状況」
岩和田
は
岸和田
が正しい
|