Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.6.29

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「大塩の乱関係論文集」目次


『綜合明治維新史 第1巻』(抄)

その11

田中惣五郎(1894〜1961)

千倉書房 1942

◇禁転載◇

  武力の頽廃(1)管理人註
   

 いたづらに威儀堂々として、しかも橋を切つて防ぎ、馬より落ちて放心 する奉行と、落馬を合図に逃出す鉄砲同心の輩によつて、大塩の乱は拡大 されたものである。若し一隊の兵を率ゐて敢然これを道に遮れば、烏合の 衆は潰え、わづか二十余の人々も逃散か切腹以外方法はなかつたらうこと は、淡路町の一戦によつて知れる。しかも退く彼等を追はうともしえず、 その行動を勝手にさせて居る。  大塩の正面の敵東町奉行跡部山城守が、いかに卑怯であつたかは、坂本 鉉之助の記に「拙者共両人(本多為助、坂本鉉之助)申合候は、昨年甲州 一揆の節(百姓一揆)、勤番は城中にのみ引籠りゐ、おめ\/と城下を焼                            やはり 払はせ候段、是迄は嘲りゐながら、今実地に臨み候ヘば、弥張屋敷内に引 籠り、市中放火を眺め居り候ひしは、余り言甲斐なき事と憤激いたし、又々 山州(跡部山城守)前へ罷出、出馬の事を勧め候へ共、山州余程臆し候様 子にて、元気も無之に付、申述候は、東照宮御社最早危く相見え申候。右 御社の儀は、平常御神体遷座の節さへ、御奉行衆御持前に相成居候処、か くの如き大変にてさへ、御出馬も無之、御焼失を御見物被成候ては、乍憚 御家にも拘はり可申旨申述候へば、山州も其節始めて心を取直し候様子に て、然らば出馬可致との事に相成云々」  当時の甲州の百姓一揆に於ても、勤番はつひに城を出ずに終つたところ に見て、当時の武士の気節の衰へは全国共通のものであつたと見られる、 「御家にも拘る」といはれて漸く尻をあげる奉行と、これを鞭韃する部下。 この坂本鉉之助は玉造与力にして、大塩の友人であり、大塩方の大砲方梅 田源左衛門を打取つた唯一の武士らしい武士であるが、その坂本すら自分 の歩いた道筋がわからず、「賊徒と戦しも、何町にてありしや、西を向て やら、北を向てやら、夫さへろく/\に覚えず、畢竟申さば、夢中同様」 と、自らの行動が無我夢中で、上り気味であつたことを自記して居るので あるから、その他は知るべしであらう。ことに軍の先に立つ纏持になり手 がなかつたとして、   「纏持は真先へ進み候役割故、誰あって持候者無之、折角持たせ候へ   ば、何時の間にか遁去り候様にて、致方無之、折節○○詰合居候故、      おはせ まとひ   大小を被帯、纏を渡候へば、此者は無分別の者共故、一向憚るヽ気色   もなくかつぎ、真先に進み候に、今其跡へ引続き人数一同、山州も出   馬に相成候処、其時は最早時刻も八つ時過ぎに有之候につき、武家の   奉公、○○にもおとり候ていたらく、且早朝より小田原評定のみに時   を送り、かくの如く遅刻いたし候次第、万端の様子、是等にて御推察   可被下候。」  特殊部落の人の勇気に見ても、勇侠の徒はむしろかうした下層民の中に あり、大塩側もこの徒を用ひて居るところに見て、武士の顛落の度が充分 に察せられる。





藤田東湖
「浪華騒擾記事」














































坂本鉉之助
「咬菜秘記」
その8 


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