Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.7.1

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『綜合明治維新史 第1巻』(抄)

その13

田中惣五郎(1894〜1961)

千倉書房 1942

◇禁転載◇

  打毀し(1)管理人註
   

 だが商業都市といへども、天下の富の大部分を占める豪商はその一部分 であり、大部分は其日暮しの人々が多く、それが農民の如く直接生産に従 事しないだけに、一旦悲境に立たされた時の度は農民以上であることは、 すでにのべた通りである。そこに「打こわし」と称する抗争手段がやむな く取られる。竹越与三郎氏の日本経済史について見ると、   「奥羽の飢饉と、浅間山の噴火とは、江戸、大阪のごとき大市に集ま   るべき米穀の数量を減じたると、及び米の供給に関する種々の想像を   書くより、米価騰貴は非常の高率を示し、天明七年五月に至りては、   大阪の米相場は一升百四十八文にして、古今最も高き価を示せしが、   江戸に於ては城中の張紙相場は、百俵に付五十二両にして、町相場に   至つては、初は百二十両、中頃百五六十両、五月十七八日頃には百八   十二両に達し、小売は百文につきて、四合より三合五勺、二合五勺に   上る。此に於てか眼前の窮迫と憤懣とに刺激せられたる民数千。先づ   大阪に蜂起し、五月十日より十二日までの間、大阪の米問屋二百軒を   襲うて破壊せしが、此報の江戸に達するや、江戸の小民忽ちにしてま   た蜂起し、五月十日より十二日までの間、大阪の米問屋二百軒を襲う   て之を破壊す。暴徒の中、一人の美少年と一人の偉大なる漢子あり。   其挙動の軽快俊敏なる、見るもの或は暴神の仮りに形を顕はしたるも   のならんと云ふに至る。此出来事は全市に潜在する可然物に火を点じ   たるがため、二十一日の午後は……伊勢崎河岸、鎌倉河岸、日本橋舟   町辺、小網町、大伝馬町、横山町、薬研堀、両国辺、其他鳥越橋より   南方一帯、芝口、麹町一帯、四谷、新宿、牛込見附、外寺町、水道町、   御納戸町、原町辺等、悉く富豪の家、米商の家を襲ひ、二十二日、本   所六間堀、竪川通、本郷筋違橋、外神田、浅草門跡前より広徳寺前、   千住、箕輪、金松両国、本所中の郷、深川辺を襲ひ、二十三日、芝三   島町、品川を襲ふ。全市の中、暴徒の襲はざりしは飯田町のみ。   此の時暴徒凡そ二十四五組に分れて五千余人あり。主として米商を襲   うて、平生憎悪せる富豪に及ぼしたるものにして、太店が其門を塞ぎ   戸を閉づるや、大八車数輌を並べて、数十人之を推して門を破るを常   とせしが、相戒めて盗を為さゞりしも、暴徒の結果解体するや、多く   変じて盗を為せしといふ。米商以外の富豪にして甚しき損害を受けし   は、日本橋の白木屋、南伝馬町万矢策兵衛、浅草蔵前のいせや四郎左   衛門、淀橋の大和屋、下谷黒門町前金沢丹後、両国の四方、薬舗松本   等なりしが、千住の伊勢屋長兵衛は、数年前多水の時、日本橋に米を   積みて窮民を救うたるを以て、暴徒共旧徳を記して犯さゞりき。幕府   は暴徒が威力を揮ふを見て為すを知らず、三日の間之を傍観したりし   が、二十三日に至りて命を下して捕吏を発し、且つ市民が竹槍を用う             とが   るを許し、人を殺すも尤めずと命ずるに及びて、市民各自結束し、辻々   の木戸を守りしが、暴徒の疲労したると、幕府が芝、麹町、深川、浅   草の四ケ所に於て、男女の別なく一日米五合と銭三百目を与へたるに   よりて、僅かに沈静したりしが、此一挙のため幕府の威力は地に落ち   たりき。此等の暴徒は江戸に於て最も甚しかりしのみ。長崎に於ても、   和歌山に於ても、大和の郡山に於ても、奥州の石の巻に於ても其他の   通邑大郡、皆な大同小異の暴動ありき。」

   


『綜合明治維新史 第1巻』(抄)目次/その12/その14

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ