Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.6.24

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「大塩の乱関係論文集」目次


『綜合明治維新史 第1巻』(抄)

その6

田中惣五郎(1894〜1961)

千倉書房 1942

◇禁転載◇

  乱の経緯(2)管理人註
   

  蟄居の我等、最早堪忍難成、湯武之勢、孔孟之徳はなけれども、無拠   天下のためと存、血族の禍をおかし、此度有志之ものと申合、下民を   悩し苦め候諸役人を先誅伐いたし、引続き驕に長じ居候大阪市中金持   之町人共を誅戮および可申候間、右之者共穴蔵に貯置候金銀銭等、諸   蔵屋敷内に隠置候俵米、夫々分散配当いたし遣候間、摂河泉播之内、   田畑所持不致もの、たとへ所持いたし候共、父母妻子家内之養ひ難出   来程之難渋者へは、右金米等、取らせ遣候間、いつに而も大坂市中に   騒動  起り候と聞伝へ候はゞ、里数を不厭、一刻も早く大坂向駆可   参候。面々へ右米金を分け遣し可申候。鉅橋鹿台の金粟を下民え被与   候遺意ニて、当時之飢饉難義を相救遣はし、若又其内器量才力等有之   者には、夫々取立、無道之者共を征伐いたし候軍役にも遣ひ申べく候、   必一揆蜂起之企とは違ひ、追々年貢諸役に至迄、軽くいたし、却而中   興   神武帝御政道之通、寛政大度之取扱にいたし遣、年来驕奢淫逸の風俗   を一洗相改、質素に立戻り、四海万民いづれも天恩を難有存、父母妻   子を被養、生前之地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前見せ遣し、堯舜   天照皇太神之時代に復しがたく共、中興之気象恢復とて立戻り申べく   候。  こゝには極めて具体的な事実と、飛躍せる目標の混乱がある。彼の目ざ す相手は、摂河泉播と称する大阪附近の貧農であり、大阪の一般市民では ない様である。それも富豪の蔵をあばいたものを頒与し、これを拾ひ取ら せることによつて、一時的の貧窮から脱しさせようとして居るに過ぎない。 貧窮や米不足はむしろ膝元の小市民に甚しかつたと思はれるが、彼も封建 的農本的な思想家らしく、村々の困窮をのみ強調して居る。しかもその混 乱を通じての目標は、堯舜、天照皇太神は望まれぬとしても、神武帝の御 政道に従はんとするのである。如何にして、如何なる順序で行ふかはすべ て記してなく、自らも予知しえなかつたのであらう。堯舜的な支那と併せ て、神武の古に復らうとするところに、その特色を汲みえても、その政治 の体制には無識であり、漠然とした世直し的なものに、この尊い文字を冠 らせたものであらう。一揆蜂起に非ずと断つて、あるのは、農民や小市民 のそれではないといふのであつて幕府の一下級官吏の一揆蜂起と解せば、 この全文の意味は極めて明瞭となるのであらう。大阪天満与力にして陽明 学者たる大塩のみづから行はうとしたことを、実行力の強い彼が行つたに すぎず、官吏にして学者たる大塩に、社会改革者たれと期待するのは無理 であらう。そこには、京都方への大義の標準もなく反幕的雄藩を利用する 政略もなく、況んや諸国不平の徒を糾合する経綸もない。あるものは眼前 の窮迫に忍びざる心と、これを行動にうつす知行合一的な力があるのみで ある。徳川の官僚的学者の憤懣を、弟子とともに発散したものと見るのが 真相であり、四囲の情勢と彼の性格は、これを成しうる方向に彼を誘つた のだ。




大塩檄文

























「寛大度」
成正寺版では
「寛大度」


『綜合明治維新史 第1巻』(抄)目次/その5/その7

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