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大塩平八郎、姓は三宅、中斎、又後素と号ず。阿波美馬の人、自ら今川
義元の支流と称す。少年にして父母を喪ひ、大坂に出でゝ、余力大塩家
の養子と為り、独学十年諸子九流の大源を究め、最も余姚の学義に深到
す。文化九年、大坂町奉行組与力として、始めて吏務に鞅掌す、時年十
九。
平八郎、生れて父母を知らず、兄弟を知らず、東西を知らず、頗る逆境
に処して、性自ら峻峭。其職を奉ずる、奉行高山山城守の知る所と為り、
数々大獄を断じて重名あり。天保元年、山城守、職を辞するに当り、平
八郎も亦従て辞し、養子格之助をして其後を嗣がしむ。時に招隠の賦あ
り。昨夜間窓夢始静、今朝心地似僊家、誰知未乏素交者、秋菊東籬
潔白花。爾来、専ら道学に志し、幕府の所謂異学の説を立てゝ諸生に授
く、晩に門弟三千人あり。其著、洗心洞剳記は、此間に於ける緒業にし
て、是を富嶽に埋め、勢廟に納めたるに見るも、其畢生の力を費したる
や知るべき也、書中に曰く、英傑当大事、固忘禍福生死、而事適成、
則亦或惑禍福生死矣、至学問精熟之君子則一也と。平八郎、自ら其言
を履むべき、天保の飢饉は眼前に来れり。
年代を見るに、天保四年より米穀登らず、加ふるに金銀疏悪にして米価
騰貴し、所在貧民食料を得ず、餓 途に横はること数年、八年に至て凶
歉其極に達す。平八郎、献策して曰く、坂府は由来金融の中心、且つ米
穀集散の地也。此際、富豪大賈を連合して、賑 救拯の法に出でしむべ
し、特に九重の楓震、今何の状かある、速に廩米を開き、大に帝畿
に施すべき也と。奉行跡部山城守、平然として之を斥け、何等顧みる
所なし。平八郎以為らく、奉行は将軍を以て、上御一人より貴しとす
る乎、将又関東を以て京師より重しとする乎と。胸中、王覇衝突の感、
勃然として興り、一方に勤王の念、一方に平民の声を代唱し、親ら富豪
に説て、救 策を講ぜしむ。市民、財を惜み、権に諛ひ、一人の之に応
ずるもの無し。於是、蔵書数万巻を鬻き、金二万両を得、分て窮民一万
余人に与え、心聊か愈すと雖も、満目の惨憺、見るに忍びず、八年二月、
遂に門弟徒党数十人を語らひ、兵を挙げて私曲の官を誅し、穢欲の商を
懲し、以て大に財を散じて此急難を済はんと欲す。来り会するもの五百
人、焼く所の町数百十二町、市舎一万八千余戸。城代及奉行等、兵を率
ゐて之を禦き、激しく淡路町に戦ふ。平八郎、敗走して土佐堀に隠れ、
衆兵の為めに囲まれ、自ら火薬を発し、爆裂中に磔死す。
平八郎、山陽と同気相求め、嘗て管鮑の情あり。平八郎自ら謂て曰く、
夫山陽之善属詩文、洞貫史事、詩客文人之所知、而我則嘗為吏、与参訴
獄、且講陽明子致良知之学者也。以世情視之、則如不与山陽相容然、然
往来不断、送迎不絶何也。余善山陽者不在其学、而窃取其有胆而識矣。
山陽も亦佩刀の贈ものを受け、之に答ふる謝詩の中に、君刀疑経斬姦
邪、魚膓紋雑血痕、 吾書字々頗類此、此是千古英雄血、血有新陳
用意同、素心相照両如雪。共に知己と謂ふべし。
賛曰。内治に齷齪たる徳川幕府は、姑息にして小胆、固より処士の横議
を許す能はず、矧んや秩序的官学の世、天空海濶的諸子流の異論を容れ
んや。加之、中斎、気骨稜々として権貴に下らず、其学と其気、常
に相待て胸中に鬱抑し、機を得て将に発せんとするに於て、尚益々
当世と相反撥するを見る。而も幕府圧制にして、朝廷を疎じ民命を
軽ず、中斎の淵黙を破る、亦已むを得ざるもの情勢也。春日潜庵曰
く、中江藤樹、熊沢蕃山、三輪執斎、三子の後独り此老あるのみ。世人、
概ね成敗の迹につきて論じ、呼びて乱臣賊子となしぬ、悲むべき也。此
老の兵を挙げしは、勤王の先鞭を着けたるものなれども、幕府なほ盛な
るの日にありしをもて、人皆悟らざる也。此老、争で功名富貴をのぞみ
て此挙をなすものならむやと。宣也、中斎の為す所、言ふ所、民を顧ひ、
君を憂ふるの余に出づ。人、之を叛と謂ふ、何ぞ解せざるの甚だしき。
叛とは神器を窺 するものにして、覇者の神器を蔑する北條足利の
如きを謂ふ。故に云く、山陽は維新の予言者にして、中斎は其急先
鋒也と。
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余力
与力の誤植か
鞅掌
(おうしょう)
忙しく働いて
暇のないこと
峻峭
(しゅんしょう)
山などが高く
けわしいさま
高山山城守
高井山城守が
正しい
凶歉
(きょうけん)
凶荒に同じ
大賈
(たいこ)
大商人
以為(おもえ)
らく
将又
(はたまた)
諛(へつら)ひ
鬻(ひさ)き
齷齪
(あくせく)
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