◇禁転載◇
氏は、近世の学校のなかで、官学に対する私塾の自由さに注目し、これをさらに三つのタイブに分類し、その一つとして「反対物としての私塾−政治結社的私塾」をおき、時習館・松下村塾などをあげ、その先駆として大塩の洗心洞塾を位置づけた。開塾の時期・塾生の年齢・就学形態・学費・塾則・時間割・出張講座・政治教育の実際などについて詳述し、この学塾がどうして政治的決起に結びついたかについて、大塩のカリスマ性・教師の教育観を密に伝える人格的接触・自らの水準をストレートに示す教師中心主義・ブッキッシュな学習を蔑視し、学習を社会改革に結びつける知行合一の思想などに求めた。
綿密な史料と理論によって、氏は洗心洞塾を政治結社的私塾の先駆として位置づけ、トッブ・リーダーの指導性に負う一揆的色彩の濃いものであるが、塾生と民衆の結びつきは単純かつ弱いものであり、大塩の乱は瓦解の運命をもつが、それでも私塾を中心に世直しをはかったものであり、長期にわたる大塩の教育活動があったことは注目に価するとした。幕府の吟味でも門人教唆が判決上重視されていることはその例証である。また大塩を中心にすべての階層に同志をという考えにいたらず、世直しとの大同団結的な結びつきも生まれていないとする。
今後の研究課題として、師弟関係をふくらますことが基本で、未発見史料の発掘、教育内容の具体的解明の必要を提起した。
きわめて重厚な内容で、近世期の広範な私塾の研究にもとづくもので、実に学ぷべき点の多い講演であった。詳細は、本誌所収の海原氏のまとめと前掲書を参照されたい。なおR・ルビンジャー(ハワイ大学)『私塾−近代日本を拓いたプライベート・アカデミー』(石附実・海原徹訳、サイマル出版会)も同じ方法によるもので興味深い。
なお席上、有光友学氏がご尊父で本会顧問であった故有光友逸師追悼について、本会への謝辞をのべられた。
目下編集中の大阪府史・大阪市史の委員であり、天保期・大塩の乱について本会の成果を生かした論稿を期待していたのに、残念なことである。享年六六歳。ご冥福をお祈りします。
なお、松次郎の孫計屋ヨシさん(故秀美氏の叔母)は屋久島に健在である。
天満川崎にもあり、元和二年(一六一六)徳川家康没年に松平忠明によって造営された。近世にはかなり賑わい、四月一七日の祭礼には、一般人の参詣も許され、「浪華市中は言もさらなり、近郷近在より歩みをはこびて群参す。其にぎわひ言ばかりなし」(『摂津名所図会大成』)といわれた。
文政三年(一八二〇)の「大坂御役録」をみると、大塩邸の西隣りが西田三助・同青大夫、その南に接して天満橋長柄町に面して細長く「御宮 別当建国寺」「松平下総守屋舗 御宮附留主居竹下七郎左衛門」とある。松平忠明以後、所々に転封しながらも東照宮(別当建国寺)は同家の警備するところであり、安永七年(一七七八)からは、境内の一部に蔵屋敷を移していた。西田青大夫の弟が大塩格之助である。また大塩邸のすぐ北側に右の地図には朝岡助之丞とある。
この「御宮」が川崎東照宮で、現在の滝川小学校の地にあたる。校門前に「川崎東照宮跡」と記した大阪市史蹟顕彰碑が建っている。いま造幣局構内、厚生クラブ入口に移転されている与力屋敷の南と滝川小学校との境界にレンガ塀があるが、東照宮との境を示すものではないか。
大塩が蜂起時に、まず建国寺(東照宮)を砲撃したのは、「天満水滸伝」にいう「建国寺を焼立ては是非とも御宮守護として、消防の為め町奉行出馬あるに相違なし、其時を待ち討取らんと心構えをなし居たりしが」というねらいがあった。反忠者が出たあとの新しい作戦、「一般方略ノ破綻ヲ回復セント欲スル」(石崎東国『大塩平八郎伝』)ものであった。東照宮は全焼した。
それから三○年余、倒幕とともに東照官もすたれた。天満青物市ににぎわいにささえられた天満天神社が、繋栄をつづけるのと好対照の歴史を刻む。
一九八二年五月一日付の「朝日新聞」は、「萩の寺」で知られる豊中市の東光院で、その後の川崎東照宮の歴史を示す一通の文書が発見されたことを報じている。明治四○年(一九○七)一○月、東照宮関係者総代神吉仁三郎の名で出された東光院あての感謝状である。
これによると、明治四年(一八七一)一一月に東照宮が東光院へ遷座し、以後この寺で護持してもらった。このほど社殿が完成したので、ご神体や神器を引きとるが、謝意として金五○円を寄付するとある。当時東光院は、西成郡の下三番村(いまの中津・「世界長ビル」のあたり)にあった。同院については調査の必要があるが、建国寺の名跡をついでいた。明治三六年に現在の豊中市南桜塚の地に東光院箕面別院として鎮守堂と庫裏ができ、その後大正三〜五年にかけて順次現在地に移転し、近世期以来の「萩の寺」としての名を今に伝えている。ここには隠岐島から伝えられてきた木造の伝小野篁作のあごなし地蔵が地蔵堂に安置されているが、この堂屋はもと東照宮にあったという。
さきにみた明冶四〇年に再建された神殿は、どこに建てられたものであろうか。いま天満天神さん(大阪天満宮)の北裏にある星合池(通称亀の池)の奥に、葵紋瓦をおいた蔵があり、その前に天満宮宮司滋岡従長による明冶四二年の碑が建てられている。この神輿蔵は、東照宮から移築したものと伝えられている。神殿とよべるものではない。
明治十八年の大洪水で流されるまで天満橋は、現在の橋より半町ばかり上手から天満橋筋にかかっており(宮本又冶『てんま』)、そこから北へ向った天神橋三丁目筋と寺町の交差する西北角にこの蔵と碑は建っていたといい、道路拡張によって昭和九年一○月に現在の星合池畔に移ったと伝える(天満宮の教示)。おそらくそれまでは右の地点で、滋岡碑のいうように葵倶楽部によって護持されたのであろう。
この神輿蔵には、葱花輦(そうかれん)がおさめられ、その中に東照宮のご神体が安置されていたが、戦後保全の必要上本社内に移されている。
大塩は小学校の教科書にもとりあげられているが、大阪の人であり、実地に調べに行けるからとり上げたそうで、「プロフィル」で大塩の生涯を紹介したあと、「奉行所、幕府・金持ちなんてくそくらえ〃」「なんとびっくり平八郎の性かく」(これがなんといがいもいがい、平八郎の性かくは、自分にも他人にもきびしくこわい性格で、それにも増してきしょうのはげしい人だった)、「結こん〈したか〉はたまた〈否〉か」(担任の先生から結婚はしていないと聞いたが……。この点「妾」と記録されているゆうについての説明はむつかしい−S評)等々。しかも担任のH先生につれられて、友だち二〇人ばかりと桜宮銀橋を渡って造幣局構内の洗心洞塾跡を訪ねたもので、その時の写真もついている。北河内の児童が郷土学習で大塩をとりあげた心意気がうれしい。「やるときはやる! これしかない」「私はこの精神を見ならいたい」と結んでいる。この通信が本誌にのるころは、もう卒業式、桜の花の咲くころは中学一年生。また「大塩はん」を調べてね。