Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.6.16

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「洗心洞通信 17」

大塩研究 第18号』1984.12 より

◇禁転載◇


◇大塩ゆかりの槐(エンジュ)ついに伐採

 北区天満一丁目造幣局官舎前の国道一号線にあったエンジュの古木は、大塩家敷の向い天満与力朝岡助之丞の裏庭にあったと伝えられるもので、大塩乱の当日の朝、大塩家敷から撃ち込まれた砲弾の第一発が当ったといわれるゆかりのものであったが、高さ六メートル、直径○・八メートル樹齢二百歳の古木で、車の排ガスで枯死寸前であったため、倒れる危険も出てきたので、近畿地方建設局大阪国道工事事務所の手によって、一九八四年三月三十日朝、関係者立会の下で伐採された。

 伐採にさきだって同日朝十時から成正寺有光友信住職が祭司となって祈願法要が行われた。与力朝岡助之丞の四代目に当る朝岡三治さん(和泉市在住)の一族郎党が喪服姿で参列せられた。大塩研究会からも酒井会長はじめ多数が参列して厳かに執行された。

 エンジュの伐採とともに、すぐそばにあった同じく樹齢二百歳のイチョウも枯死していたので、これも切り倒された。伐採されたエンジュは朝岡三治さん、成正寺と国道事務所の三力所に分けて引取られた。近く、二代目のエンジュが元の場所に植樹されて記念碑が設置されるどのことである。 なお、この日のテレビは〃毎日〃が午後六時から「樹齢二○○年の老木切倒して法要」 〃開西〃は午後六時半から「大塩の乱生き残りの老木伐採」の特別番組で報道された。

◇南浜の大塩墓の近況

 江戸時代の大阪七墓の一つで、世上〃浜の墓〃といわれていた南浜の墓地は大阪市大淀区豊崎一丁目にある。 この共同墓地の南西隅に二つの墓がある。その一つは春岳院清空=大塩家三代の高祖父喜内、本覚院不二日性=同五代の喜内の弟、助左衛門、耀山院誠意日涼=同六代政之丞、覚信院秀雄=政之丞の息で平八郎の叔父、石川吉次郎の四柱を合祀した墓であって、この基碑は、平八郎が文政元年に従来あった旧碑が損壊して文字も判読しかねる状態となったので、子孫が先祖の墓を確認出来ないことをおそれて建て換えた−とその墓碑の裏面に兵八郎の自筆で刻まれている。もう一つの墓は「新寂 林道信士」大塩平八郎建立とあり、これは政之丞の息で、享保元年八月二十二日二十五歳で没した。平八郎の叔父の墓である。また、この二基の墓の傍に塩田鶴亀助夫婦の基もある。

 私は五月の或日、所用があってこの近くまで来たので立寄ったところ、大阪市の吏員と墓地管理人の二人が偶偶管理の点検に来ておられたので、いろいろお聞きしたところによると、現在、この基地は大阪市が管理しており、所管は環境事業局とのことで、いずれ無縁墓は整理の対象で、大塩墓もその一つと考えているということであった。環境事業局の所管であるから墓も粗大ゴミの一つかと感慨ひとしおのものがあった。大塩墓は文化的遺産であるから、そんなことのない様配慮していただくようお願いした。会員のみなさんも当局に完全な保存の要望をしていただきたい。

◇妙寿寺の大塩供養碑

 摂津名所図会などに名刹として喧伝されていた大阪市福島区の五百羅漢寺こと妙徳寺は天満焼け(明治四十二年)のあと都市計画などのため近鉄、額田駅近くの東大阪市額田町二丁目に移転したが、その経緯を追跡調査中に、同寺の境内に「大塩 播磨屋 杉本、各家歴代供養碑」なる新しい石碑を見つけた。同寺の住職の話やその後の調べでわかったことは大塩平八郎の遺児であると伝承されている播磨屋こと杉本太七((大塩太七)の子孫杉本さん(東京都在住)が建立せられたものとわかった。この播磨屋太七は正史に載っていない遺児といわれ、明冶維新後、平八郎の子孫であることを公称していたといわれる。このことについては、「大塩研究」十六号(八頁)に「成正寺への書簡」どして杉本さんからのお便りとして載っている。私 も詳しいことを知りたくて、お便りを差上げたどころ、六月二十四日付で次のようなお返事をいただいた。〃お返事はかなり長文になりますので、仕事の合間に少しずつ書いておりますが、もう暫くお待ち頂ければ―〃

◇祐泉寺の古文書調査

 百貨店の古書即売会で書店より耳よりな情報をいただいた。それは洗心洞から南へ五、六百メートルの北区天満一丁目にある真宗大谷派の祐泉寺は大塩焼けで焼かれたが、その時、寺の古文書類は安全な場所へ運び出され、今次の戦争には空襲にも幸いあわなかったということで、早速その真疑を問合せたところ、同寺は明応七(一四九八)年玉造村に創建、寛永十二(一六三五)年現在地に移転し、天保十二年に再建されたのが現在の本堂、庫裡であって、古文書も多数遺っているとのことだった。大塩関係の資料が発見されるのではないかと思い、古文書の閲覧をお願いしたところ、古文書を保管している蔵を目下改築中であるから、他所へ預けてあるので、蔵が竣工する秋にはどうぞ研究に役立てて下さいと快諾を得た。本会の古文書研究グループで近く調査に伺う予定。

◇飛騨高山の町にもお触書

 夏休み乗鞍、上高地からの帰途、高山市で列車待ちの時間を利用して、上一之町にある高山市郷土館にとびこみ、しばし町家資料を観覧中、フットここは金森代官支配の天領だから大塩事件のなにかの記録があるのではないかと思いたち、館長にお願いしたところ、同館所蔵の天保八年町年寄詰め誥所の「日記」を見せていただいた。四月七日のところに「一、大井正一郎外七名人相書御触出候事」とあるではないか。しかしいくら目をこらして捜しても二月、三月のところには頭領大塩平八郎のことは、なぜか記述されていない。大井正一郎は尾州から美濃路を経て能州に逃亡し、再び舞戻った。三月下旬に京都で召捕られているのだから四月七日のお触れ出しには大阪と飛騨との遠い距離を感じた。大井正一郎ほか七名とはだれを指すのだろうか。岐阜県立図書館には飛騨郡代高山陣屋文書が整理の上収蔵されている。どなたか、天領支配下の高山と大塩事件の余波を研究していただけませんか。
 (以上、井形正寿)

◇大塩中斎忌と研究会総会

 三月二十七日大塩菩提寺の成正寺で、住職有光友信師による恒例の法要を営み、その後、大阪大学助教授宮本又郎氏の「物価史からみた天保時代」と題する講演があった。近年盛んになった物価史研究の一線で活躍されている同氏から、その成果をふまえて、天保期の画期性を強調されたお話を伺った。

 そのあと、総会を開き、一年問の活動の総括と次年度の方針を承認した。井形正寿氏を副会長に、川合賢二氏を委員に加えて、役員の充実をはかった。

◇夏の例会を枚方で開く

 盛夏の八月五日見学会をかねて例会を大阪の北郊、枚方市中宮東之町六の西方寺で開いた。地元の研究者中島三佳氏(寝屋川第十中学校教諭、枚方宿役人子孫)が最近発見された私塾・南明堂と大塩事件との関係について、詳細なプリントにもとづいて報告された。塾主行田(なめだ)家の四代、一五○年にわたる塾の活動、茨田郡士(門真)や深尾一族(尊延寺)、和久田一族(星田)や旗本代官北村氏(船橋)など大塩関係者が若い頃にこの塾で学んだことを論証され、南明堂が北河内に与えた影響、お蔭おどりからええじやないかにつづく民衆運動についても、言及された。

 西方寺は、大正期の農民運動ゆかりの寺で、大正十一年(一九二二)八月、ここ山田村中宮の地で日本農民組合巡回農民学校が開かれ、杉山元治郎・賀川豊彦らの講義があり、全国から百人をこえる聴講者を数えたところである。当時の堂舎は、昭和十四年(一九三九)三月の禁野火薬庫の大爆発で倒壊し、現在のものはその後の再建になるものである。

 発表のあと、中島氏の案内で、史跡百済寺・禁野共同墓地・浄蓮寺をまわって、同寺で解散した。

 例会には塾主の子孫行田徳蔵氏が茨木市清水から出席され、関係資料を所蔵されていた多田房継氏ら、直接塾につながる方々の参加があり、地域に根ざした研究のもつ役割の大きさを感じさせるものがあった。また行田氏からは、出席者一同に結構なお菓子・冷いジュースを頂載した。会として厚くお礼申し上げまず。

◇訃報

 鳴門市鳴門町高島の岩村武勇氏が一九八四年一月二五日逝去された。本会発会後間もなく入会されたが例会は常に大阪で開催のため、遂にご出席していただく機会がなかった。

 大阪府南河内部美原町黒山の西条喜与人氏が二年前から病臥され、入院加療の効なく、一九八四年十一月十八日逝去された。ご遺族の話によると、郷土史研究が生きがいで、大塩事件には深い関心をもたれていたのこと。一九七八年から賛助会員としてご協力いただいた。ご両人のご冥福をお祈りします。

◇西尾副会長の喜寿祝賀会

 本会の副会長として卓越したオルグ力で会を運営してこられた西尾治郎平氏が、喜寿を迎えられたので、そのお祝いの会が九月二日なにわ会館で開かれた。氏の幅広い平素の活躍を反映して各方面から約七十数名が出席し、実に楽しい会合で、社会運動の上からみても注目すぺき各層の人材が集まった。大岡欽治・加藤充・大野健夫・戸松喜蔵・椿繁夫・経塚幸夫・沓抜たけ子・中江平次郎氏をはじめ、本会からも酒井・井形・中瀬・安藤・久保の各委員が参加し、久保氏は事務局として万端、準備と運営にあたられた。

 氏の経歴は、塩田庄兵衛編「日本社会運動人名辞典」にくわしいが、いずれ本誌でも大塩との関係で聞きとりをしたいところである。氏の一層の御長寿と御活躍を切にお祈りしたい。

◇大塩父子、終焉地の地番変更

 大塩中斎・格之助が天保八年三月二十七日に果てた場所は、靫油掛町で、西区靱本町二丁目六一〜二番地であったが、その後変更され、現在は靱本町一丁目一八番地になっている。靱公園の南側で、石本ビル・日紅商事KKのあるところである。
  (荻田昭次)


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