Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.18訂正
1999.9.12

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「洗心洞通信 18」

大塩研究 第19号』1985.3 より

◇禁転載◇

 

◇伊豆江川文庫史料による例会発表

 一九八四年十二月一日の午後、故米谷修・副会長ゆかりの、そして本会事務所の所在地でもある大阪履物会館において、例会を開催した。日本福祉大学教授青木美智男氏が、「箱根山中で発見された大塩関係書状類」と題して研究発表された。伊豆韮山の代官であった江川家の文庫から発見された貴重な史料にもとづく報告で、これが韮山に残されてきた事情、大塩家と江戸の林家との関係など、旧説に修正をせまる興味深い内容であった。

 大塩関係の史料もいろいろあり、国触れや伝聞に類するものに出会ってもち上げる向きもあるが、一級史料はそうざらにはない。青木氏の発見された史料は、氏の長年にわたる江川文庫調査と鋭い史眼によって日の目をみたものといえる。この発表の詳細は、同氏の「日本福祉大学研究紀要」第五九号(一九八四年二月)に、史料の全文とともに収められている。

◇椿椿山の宇津木対馬像

 渡辺崋山が、大坂城代土井利位の重臣鷹見泉石の肖像をかいたことは有名である。「飽くまで写実に立脚し、一筆の冗線もなくこれ程の具象的効果を上げているのはむしろ驚嘆に値する」(菅沼貞三『崋山の研究』、木耳社、一九六九年)という名品である。大塩事件鎮圧後正装して藩主の菩提寺に代参しての帰路、泉石は崋山宅によったが、崋山はその姿を写生したという。

この崋山の愛弟子の椿椿山(つばきちんざん)が、「彦根太夫、宇都木対馬像」を描いている。上下(かみしも)を着て端座した中年の武士の姿で、嘉永元年(一八四八)、椿山四十八歳の作という。「平八郎を極諌し槍に刺された、宇都木靖道の同胞であろうか」 (菅沼、前掲書)という。

 

◇浪曲「ああ大塩平八郎」

 大塩事件は、なかなか堅ぐるしい印象のものであるが、さすがに大阪では、講談や落語、浪曲にもとりあげられている。三月十八日大阪中之島中央公会堂で、浪曲界の親睦団体である親友協会の創立九十周年記念大会が開かれた。その席で新会長の真山一郎氏が「ああ大塩平八郎」を演じ、社会派らしい浪曲で、三味線を廃してテープ伴奏だけの歌謡浪曲という新機軸のもの(相羽秋夫氏の評)であった。その作詞は、本会々員の山下辰夫氏の手になるものである。詳細は次号に紹介する。
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