◇禁転載◇
安藤氏は、与力の起請文・井伊直弼の起請文を使って武士の起請の内容とそれが現実には守られていない事実を指摘され、また他方これらタテマエの文書に対し、奈良奉行所の与力鏑木家文書の「金のほし 銀のほし 東の奉行いんでほし 大塩さんが出てほし」という小さな書込みの落首などを紹介され、民衆の声が真実の声を伝えていることを、なにげなく書きとめたメモからさぐられ、史料学のあり方に問題を提起された。
そのあと、大阪市鶴見区放出の芳崎力氏所蔵の「記録帳」を使い、そのうちとくに大塩事件に関する箇所を講読し、説明を加えられた。
井形氏は、文書収集に秀いで方々からさまざまな史料を見つけ出しては会に紹介されている。京都の東寺・北野天神・岡崎勧業会館・百万遍知恩寺などの古書展にまめに出かけて探訪される苦労の一端を披露された。中世文書もこの方法で発掘され、その内容は古文書学会で発表された。この日は、奈臭県十津川村の文書を講読・解説された。大塩一党の探索は全国津々浦々にわたっておこなわれ、国触れのあとは各地で確認されるが、十津川村の例もその一つである。「守護不入」の地であった十津川の奈良奉行の捜査の動きがうかがえる。こののち文久三年(一八六三)、大塩事件後二十六年にしておこる天誅組の変に、ここが一つの舞台を提供し諸藩が周辺を固めた歴史をつづけて想起すると、大塩の乱の歴史的位置もうかび上って来よう。
暫時休憩のあと、研究会総会を開いた。昭和五十九年度の事業報告・会計中間報告・会計監査報告・昭和六十年度事業計画を原案どおり承認し、役員の改選をおこなって終了した。
雑誌が一号分おくれており、この分は夏の例会までにとり戻すこと、十一月に本会創立十周年を迎え、そのときに第二十号が発刊されるので、企画にひと工夫いること、さらに来春三月二十七日が大塩父子およぴ関係者の百五十回忌にあたるので、会としては鋭意努力してその成功につとめたいという意向が紹介された。会員からも、事件当日のコースの見学、会員柑互の親睦の必要、全国的な探訪による史料集の発刊、破壊が案じられる大阪市大淀区の南浜墓地の保存などについて、意見が出された。
役員については、昨年三月に就任された井形・川合の両氏は、もう一年任期をのこすが、他の役員の任期との関係で一且この日辞任し、あらためて全員二年任期として就任することが認められた。メンバーは左のとおり。 会長 酒井一、副会長 井形正寿・西尾治郎平、会計監査 相蘇一弘・内田九州男、委員 有光友学・安藤重雄・川合賢二・久保在久・白井孝昌・中瀬寿一・政野敦子・向江強・藪田貫。なお顧間として有光友信・岡本良一の両氏が引きつづきその任にあたられる。
会計監査の付帯意見として、会賞収入に依存するだけでは会の運営がくるしくなるので、収入をふやす方法を別途考えられたいとの要望が出された。
大阪大倫寺に建っている坂本鉉之助の墓碑が寒泉の撰文になることはよく知られているが、鉉之助も関東から大坂警備にきた武士たちを懐徳堂に入門し、自らもしばしばこの塾に来て学問に励んだことも明らかにされている。寒泉の日記(天理図書館所蔵)による新しい内容で、興味深い。
一つは『翻刻 日本略史 四』で、笠間益三編輯、「明治十三年一月九日出版御届、同年十一月刻成」で、翻刻出版人は、京都府平民寺田栄助(下京区十二組材木町二百三十三番地)となっている。年表風に「皇紀」ごとに内容を記したなかに、
天保年中、大阪町奉行の属吏に、大塩平八郎なる者あり、和漢の書に通じ又、武芸に達せり、時に連年穀実らず、細民飢餓に苦めり、平八郎自ら蔵書を売りて貧民を救ひ、且上書して救助の典を請ひしが用ゐられず、豪商輩も亦賊恤に意なきを憤り、乃ち其子格之助・同僚瀬田・小泉・渡辺・庄司等数十人と、摂津・河内・和泉・播磨の貧民を駆り集め、救民を名として乱を起し、救民の二字を記したる旗を樹て、総勢五百余人、火を建国寺・天満寺に放てり、城代土井利位、兵を発して之を天満橋に拒ぐ、平八郎は難波橋を渡り、隊を分ちて二とし、益火を市中に放つ、町奉行跡部良弼も亦部下を率ゐて之を拒ぎ、其一隊を平野町に破り、又一隊と堺筋に戦へり、時に阪本鉉之助なる者、奮進して賊の一将梅田弥左衛門を殪せり、是に於て賊勢挫け、平八郎等四散せり、既にして平八郎父子、染工三好屋某の家に潜み匿ると告ぐる者あり、利位兵を遣はして捕へしむ、平八郎父子、火を縦ちて自焚せり、此役市中兵火に罹るもの、一万八千二百余戸あり、世俗之を大塩焼けといふ。大阪有名の乱なり
このあと数年にしてやってくる国定教科書やその当時の郷土史の副読本には、大塩はどうなっているのだろうか
外骨は、明治末期には、大阪平民新聞社の森近軍平とも交流し、財政的援助を惜しまなかったが、大正三年には、当時天王寺村に住んでいた石崎東国を訪い、二人は意気投合して以後親交を結ぶにいたった。東国はいうまでもなく大塩研究で著名なひとで、その業績は今日なお 光彩を放ちつづけている。洗心洞学舎をつくり、その機関誌『陽明学』のなかで、外骨との出会いを紹介しているし、外骨もまた東国を「関西操觚(そうこ)界の熱烈士」と評価し、外骨が第十二回総選挙に立候補したときには、東国はこれを熱烈に支援している。この間の事情は、木本至著『評伝宮武外骨』(社会思想社、一九八四年)に詳しい。