Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.3.1修正
1999.9.20

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「洗心洞通信 19」

大塩研究 第24号』1988.3 より

◇禁転載◇

 

◇中斎忌と第十八回総会

 一九八五年三月三十日午後一時半から、成正寺において、大塩父子および大塩事件関係殉難者の法要を営み、父子およぴその先祖の墓前に参詣した。そのあと、「大塩関係史料を読む」と題して、大阪商業大学教授安藤重雄氏と本会副会長井形正寿氏による史料講読がおこなわれた。

 安藤氏は、与力の起請文・井伊直弼の起請文を使って武士の起請の内容とそれが現実には守られていない事実を指摘され、また他方これらタテマエの文書に対し、奈良奉行所の与力鏑木家文書の「金のほし 銀のほし 東の奉行いんでほし 大塩さんが出てほし」という小さな書込みの落首などを紹介され、民衆の声が真実の声を伝えていることを、なにげなく書きとめたメモからさぐられ、史料学のあり方に問題を提起された。

 そのあと、大阪市鶴見区放出の芳崎力氏所蔵の「記録帳」を使い、そのうちとくに大塩事件に関する箇所を講読し、説明を加えられた。

 井形氏は、文書収集に秀いで方々からさまざまな史料を見つけ出しては会に紹介されている。京都の東寺・北野天神・岡崎勧業会館・百万遍知恩寺などの古書展にまめに出かけて探訪される苦労の一端を披露された。中世文書もこの方法で発掘され、その内容は古文書学会で発表された。この日は、奈臭県十津川村の文書を講読・解説された。大塩一党の探索は全国津々浦々にわたっておこなわれ、国触れのあとは各地で確認されるが、十津川村の例もその一つである。「守護不入」の地であった十津川の奈良奉行の捜査の動きがうかがえる。こののち文久三年(一八六三)、大塩事件後二十六年にしておこる天誅組の変に、ここが一つの舞台を提供し諸藩が周辺を固めた歴史をつづけて想起すると、大塩の乱の歴史的位置もうかび上って来よう。

 暫時休憩のあと、研究会総会を開いた。昭和五十九年度の事業報告・会計中間報告・会計監査報告・昭和六十年度事業計画を原案どおり承認し、役員の改選をおこなって終了した。

 雑誌が一号分おくれており、この分は夏の例会までにとり戻すこと、十一月に本会創立十周年を迎え、そのときに第二十号が発刊されるので、企画にひと工夫いること、さらに来春三月二十七日が大塩父子およぴ関係者の百五十回忌にあたるので、会としては鋭意努力してその成功につとめたいという意向が紹介された。会員からも、事件当日のコースの見学、会員柑互の親睦の必要、全国的な探訪による史料集の発刊、破壊が案じられる大阪市大淀区の南浜墓地の保存などについて、意見が出された。

 役員については、昨年三月に就任された井形・川合の両氏は、もう一年任期をのこすが、他の役員の任期との関係で一且この日辞任し、あらためて全員二年任期として就任することが認められた。メンバーは左のとおり。 会長 酒井一、副会長 井形正寿・西尾治郎平、会計監査 相蘇一弘・内田九州男、委員 有光友学・安藤重雄・川合賢二・久保在久・白井孝昌・中瀬寿一・政野敦子・向江強・藪田貫。なお顧間として有光友信・岡本良一の両氏が引きつづきその任にあたられる。

 会計監査の付帯意見として、会賞収入に依存するだけでは会の運営がくるしくなるので、収入をふやす方法を別途考えられたいとの要望が出された。

◇懐徳堂と内山彦次郎・坂本鉉之助

 大阪の町人の学問の伝統に立つ懐徳堂は、中斎の洗心洞塾とは対局をなす学塾であるが、ここが天保期には西町奉行所与力内山彦次郎や玉造口定番与力であった坂本鉉之助と関係深かったことが、山中浩之「懐徳堂物語(三)−幕末期の懐徳堂−」(「懐徳」五三号)にとりあげられている。森小路に塾を開いていた並河寒泉に懐徳堂に出講依頼し、以後阿部遠江守・永井能登守・久須美佐渡守らの歴代西町奉行が寒泉に出講を依頼しているのも、彦次郎の周旋によるという。

 大阪大倫寺に建っている坂本鉉之助の墓碑が寒泉の撰文になることはよく知られているが、鉉之助も関東から大坂警備にきた武士たちを懐徳堂に入門し、自らもしばしばこの塾に来て学問に励んだことも明らかにされている。寒泉の日記(天理図書館所蔵)による新しい内容で、興味深い。

◇矢部定謙研究

 西町奉行として令名の高かった矢部駿河守定謙は、与力引退後の大塩から折にふれて意見を徴し、のち勘定奉行に栄進したが、天保改革のさなかに鳥居耀蔵の讒言にあって伊勢桑名に預けられ、自ら食を断って憤死した人物である。天保期のあいつぐ政治変動・民衆蜂起などを考える上で、このような人物にもっと光を与える必要がある。会員の秦達之氏(愛知県立旭丘高)が、「矢部定謙 −天保期における一高級官僚の生と死−」(『東海近代史研究』六号所収)を昨年発表された。さきの山中氏の文案といい、この秦氏の論文といい、大塩の周辺から時代なり、事件を考える貴重な内容で、今後多面的にこの角度から研究が深められることを期待したい。秦氏の論文抜刷は会に寄贈されているので、ご希望の向きはお申し出下さい。

◇明治前期の教科書と大塩事件

 東大阪市衣摺の政埜圭一氏宅を調査させていただいた折り、同家所蔵の古書刊本類のなかに、明治の教科書があり、大塩の乱について触れた箇所があるので、紹介したい。

 一つは『翻刻 日本略史 四』で、笠間益三編輯、「明治十三年一月九日出版御届、同年十一月刻成」で、翻刻出版人は、京都府平民寺田栄助(下京区十二組材木町二百三十三番地)となっている。年表風に「皇紀」ごとに内容を記したなかに、

とあり、大塩事件が「賊徒」とよばれながらも大事件として紹介されている。  もう一つは、萩井重次編『大阪府郷土史談』で、明治二十七年六月十六日文部省検定済、版権所有教育書房とある。明治二十七年二月の発行、五月に再版されたもので、大阪府管内の小学校の郷土史用につくられた。その内容は左のとおり。 とある。さきの『翻刻日本略史』に類似した文章ながら、くわしくなっており、「賊」という語が一カ所出てくるものの、大阪城・円珠庵・懐徳堂・大阪の商業といった近世の項目につづいてとり上げられ、あと、大阪行幸・明治記念標などとつづく。

 このあと数年にしてやってくる国定教科書やその当時の郷土史の副読本には、大塩はどうなっているのだろうか

◇宮武外骨と石崎東国の交流

 最近宮武外骨に関する研究があいついで出版され、喜ばしい限りである。明治・大正・昭和の言論文に名をとどめる外骨のユニークな反骨・反権力の精神に満ちた活動は周知の事実であるが、大阪とのかかわりも深く、ここで明治三十四年から四十一年にかけて、『滑稽新聞』を発刊していた(近く筑摩書房から復刻の予定)。

 外骨は、明治末期には、大阪平民新聞社の森近軍平とも交流し、財政的援助を惜しまなかったが、大正三年には、当時天王寺村に住んでいた石崎東国を訪い、二人は意気投合して以後親交を結ぶにいたった。東国はいうまでもなく大塩研究で著名なひとで、その業績は今日なお 光彩を放ちつづけている。洗心洞学舎をつくり、その機関誌『陽明学』のなかで、外骨との出会いを紹介しているし、外骨もまた東国を「関西操觚(そうこ)界の熱烈士」と評価し、外骨が第十二回総選挙に立候補したときには、東国はこれを熱烈に支援している。この間の事情は、木本至著『評伝宮武外骨』(社会思想社、一九八四年)に詳しい。


註1 誤植・欠行を訂正しています。
『日本略史 巻ノ四』

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