Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.6.12

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「洗心洞通信 20」

大塩研究 第25号』1989.3 より

◇禁転載◇

 

◇一九八五年九月例会

 会活動の報告がのびのびになり会員の皆様にははなはだご迷惑をおかけしている。ここにお詫ぴするとともに、遅ればせながら例会等の記事を掲載して、責をふさぎたい。

 八五年九月二十一日午後、大阪府社会福祉会館(大阪市南区谷町七丁目)において、秋の例会を〈大塩事件関係史料を読む〉という企画で開催した。当目は相蘇一弘氏(大阪市立博物館)の「大塩中斎書簡」、藪田貫氏(大阪女子大学)の「大塩事件聞書」の二講演を、史料にもとづいてうかがった。

 大塩書簡について最も精通されている相蘇氏は、その数が百五十通あること(うち現存五十〜六十通確認)、大塩の書状は歴史的事件を起こした人物のものとして大切に伝来されたこと、歴史にあらわれないでプライベートな内容だけに基礎史料の一つとして魅力に富むこと、改まった書などと異なる興味があることなどを指摘した上で、大塩が与力職を辞して間もない文政十三年十一月十 六日付の坂本鉉之助あての書状のコピーを配られ(現物はタテー七cm・ヨコ 一一一・五cm)、その解読を指導された。大塩の字は、大きさを統一せず、どの字も三角形をなすことなど、真偽の判定の基礎にもなるよみ方をも示唆され、またこの書状が戦前最もよく大塩書簡をしらべた石崎東国氏の『大塩平八郎伝』にもない旨を付言された。

 また近来近世史研究上あいついで問題提起を行なっておられる藪田氏は、自由民権運動期の『秩父事件史料集成』三玄社)に触れた上で、大塩ないし一揆の史料について、(1)吟味一件、(2)鎮圧側の史料(「咬菜秘記」など)、(3)一揆記録(三河の「鴨の騒立」)、(4)見聞・風聞(「浮世の有様」)、(5)関係者の史料という分類をし、大塩については史料編さんの仕事の遅れを指摘された。この日は、羽曳野市広瀬の塩野俊一家文書(『羽曳野市史』第五巻所収)をつかって、聞書にみる問題点を示された。南河内の村方代官の記録には、たとえば大塩蜂起が予定を変更したことの意味が大きいと見ており、風聞にももし予定どおり実行されていたらという危機感があり、これが徳川斉昭の「戊戌封事」などにつながるものと述べられた。その他、大塩勢の陣立て・参加人数・大炮の刻名・施行札、さらに狂歌に示される市井の声、その後の情勢にも触れられた。直接事件参加者の記録でなくても、「隠見ものなり」として流布した「落し文」(檄文)の伝写される意味も考えられ、聞書の史料上の価値を取上げる点に学ぶことが多かった。

◇大塩事件研究会十周年記念例会

 一九七五年十一月九日に本会が創立されたが、その十周年を記念して、一九八五年十一月九日午後、大阪全逓会館(大阪市西区靱本通三丁目)で、研究例会と記念パーティを開催した。

 例会では、今田洋三氏(近畿大学)の「天保期の大坂出版界」の講演をうかがった。『江戸の本屋さん』(NHKブックス)など出版についての秀れた研究の数々を発表されている今田氏が、大阪赴任後大坂の近世出版についても分析をすすめられているので、その一端を披露して頂いた。

 寛政期に低滞気味であった大坂の出版界が、天保期に上向傾向を示したのには、大塩の著作の果した役割が高いこと、間五郎兵衛(天文学者・質屋)が大塩著作の出版に資金源としてつながるのではないか。内閣文庫所蔵の「奉納書籍聚跋」七丁に、「慎独」の印があり、裏表紙に「天保四己巳 大塩格之助所蔵」の書入れがあり格之助の筆蹟でないか、この本は政府が明治二十四年に購入したこと、東京都中央図書館加賀文庫に『洗心洞箚記』五冊(明治の刷物)があること、佐藤一斎あての中斎の文章が、天保本と明治本(明治十七年三月浅井吉兵衛〈河内屋喜兵衛〉出版)とでは一分の違いもなく、同じ版木によると思われるが、だれがこれを保存したか(奉行所か、本屋か)など、注目すべき指摘をされた。また逆に大塩事件が出版に与えたダメージについても付言し、村の有力者がかつて村民と共有していた情報を庶民に流さなくなったこと、三井が大塩による情報活性化を逆にとりこんで行った例などが示された。同氏の出身地山形では、百姓が村の記録として檄文を知らなければ書けないようなものを残しており、これらの面での大塩事件の波及の大きさにも触れられた(本誌第二十・二十一号に同氏論文を収録してある)。

 このあと、西尾治郎平氏(本会副会長)が「大塩事件と私」と題して話をされた。またビデオで真山一郎の語る浪曲「大塩平八郎」(原作山下辰三氏・本会会員)の観賞を予告していたが、都合がつかず実現しなかった。

 例会後、会場から東へ約五百メートル離れたところにあるもと靱油掛町の大塩父子終焉の地(西区靱本町一−一八−二○)を見学した。この地にも記念碑を建てたいところである。

 午後五時三十分から同会館に戻ってパーティを開き、戦後大塩研究の先鞭をつけられた岡本良一氏らのスピーチをうけ、歓談、交流を深めた。

◇一九八六年三月総会と殉難者百五十回忌法要

 大塩事件研究会十周年記念行事のあと、事件殉難者百五十回忌と百五十年記念行事を連続してとりくむことになった。その趣旨はすでに本誌第二十・二十一合併号に掲載されているが、それにもとづいてまず、一九八六年三月二十九・三十の両日にかけて、大塩中斎父子および事件関係殉難者百五十回忌行事が開催された。

 三月二十九日午後、大塩家菩提寺の成正寺において有光有信師導師のもと法要を営み、午後三時から、山田忠雄氏(慶応義塾志木高校・文学博士)の「天保期前半における江戸の動向‐大塩事件とからめて−」と題する記念講演が行なわれた。遠路東京から来阪された同氏は、江戸の刊本史料をふんだんに活用して江戸の情勢を克明に説明された。詳細は、本誌第二十二号所収の同氏「大塩事件前後における江戸の状況」を参照されたい。

 その後定例総会にうつり、一年間の会活動・会計報告・会計監査報告などを承認した。とくに向う一年間の会の活動方針として、「大塩事件殉難者追悼碑(仮称)」建設の計画、連続講座の開催・史料展の計画など、例年に比して重点的な取り組みが承認され、精力的な活動の見通しが立てられた。

 建碑計画は、大塩家菩提寺である成正寺に本会と大塩中斎先生顕彰会(代表有光友信師)とが発起人となって、一口千円以上、建碑予定日は八七年三月二十七日から五月一日(太陽暦大塩父子命日)とされた。

 翌三月三十日には「大塩勢の進路を歩く」行事を実施した。午前十一時に天満橋北詰東入、川崎橋付近に「救民」の旗印のもと参集し、天満橋−造幣局内の洗心洞跡−与力役宅門−成正寺−難波橋のコースを歩み、ここで散会した。

 成正寺において堺鉄砲研究会(代表沢田平氏)による火縄銃の実演があり、ひるさがり粥施行を実施して天保飢饉時を偲んだ。ちょうど天皇在位六十年記念貨幣の鋳造中の造幣局構内への休日立入りについては、副会長井形正寿氏の一方ならぬ奔走と同局のご協力があったこと、また粥施行には本会会員の婦人や知人、枚方中宮グループなど多くの方からボランティア協力を頂いた。ここに厚く御礼申し上げる次第である。

 なお、この行事については、本誌第二十二号所収の椋橋清文氏の参加記をご一覧下さい。

◇大阪城天守閣「ときならぬ浪花の花火」展と大塩講座

 一九八七年三月二十一日から五月十日まで、大阪城天守閣において、大阪市・(社)大阪観光協会と本会の三者主催のもとに、「ときならぬ浪花の花火−大塩事件百五十周年資料展−」が開催され、多数の参観者を得た。天守閤主任渡辺武氏および直接この企画を担当された学芸員内田九州男氏に厚く御礼申し上げたい。副会長井形氏の発意で参観者用のノートが用意され、大塩事件についての印象を知るのに役立った。出品内容は、さきに一九七六年秋大阪市立博物館で開催された画期的な大塩展のあと、新たに発見されたものも加えて注目を集めた。  同時に、天守閣において連続講座「大塩事件を学ぶ」を開催した。同所において八回、九回目は守口市教育文化会館においてそれぞれ盛会かつ活発に行なわれた。これら一連の行事については本誌第二十三号に紹介されているのでご参考頂ければ幸いである。駒井氏の講演内容については、同氏「天保飢饉時における守口旧諸町村」(守口市文化財研究会『文化財春秋』別冊「探史考」第三号所収、一九八八年刊)に詳しい。

◇大塩事件百五十周年記念行事

 一九八七年春には事件百五十年記念行事のハイライトを迎えた。三月二十八日に成正寺において関係者慰霊法要・墓参のあと、中瀬寿一氏(大阪産業大学)の「最近十年の史料発掘の成果と今後の課題−城陽市堀家文書その他を中心として−」と題する講演が行なわれた。全国に調査の足をのばし財閥史研究から草の根の研究に進まれている同氏は、広い調査結果を紹介したのち、とくに新発見の京都府城陽市寺田の堀家文書を中心に話され、同村の青年堀鉄蔵がのこした秀れた大塩記録を分析された。この史料は城陽市編さんの過程で発見、報道されたもので、大阪城天守閣の展示にも登場して注目された。同氏と村上義光氏によって『大阪産業大学論集』社会科学編六十五・六十六等に多面的に論述されているのでご一覧を乞う。

 その後総会が開かれ、昭和六十一年度事業報告・同年度会計中間報告・昭和六十年会計決算報告・昭和六十一年度会計監査報告(内田・相蘇両氏)・昭和六十二年度事業計画がはかられ承認された。

 役員については、会長の酒井一、副会長井形正寿・西尾治郎平、委員有光友学・安藤重雄・川合賢二・久保在久・白井孝昌・中瀬寿一 ・政野敦子・向江強、顧問有光友信・岡本良一、会計監査相蘇一弘・内田九州男が提案され承認された。会費については改訂しないが、会費の納入について協力を求めること、委員は若手をできるだけ補充し活動を強化すること、大塩史料集について実行委員会などを考えて早く実現する必要などが指摘された。

◇大塩の乱百五十周年記念の集い

 一九八七年五月大塩事件百五十周年を記念して、盛大に行事が開催された。

 五月二日午後一時から、第一部として関係者慰霊の法要と「大塩の乱に殉じた人びとの碑」の除幕式が、成正寺で催され、全国から参列者百四十名を数えた。本会も発起人に加わった大塩事件殉難者追悼碑建設委員会(代表幹事 有光友信・大久保博之・井形正寿・酒井一)による一年間の募金活動が多くの方々の賛同を得て、この日除幕に至ったもので、本堂前、大塩父子の墓の東側に高さ百八十センチの御影石の碑が建った。裏に事件の概略と建碑の趣旨を記した文章を刻んである。正面の碑文は、関係者子孫政野敦子氏の知人である書家の森青玉氏の筆になるものである。碑面にはその旨示していないので後世のためここに明記しておく。また正面碑文の上段「救民」の字は檄文からとったものである。

 参会者は、東京・島根・鹿児島など全国各方面にわたった。関係者子孫が遠路種子島から馳せ参じられるなど、感激のきわみであった。

 第二部は、会場をホテルくれべ梅田に移して行なわれ、相蘇一弘氏の「大塩蜂起の当初の計画−大塩はなぜ死ななかったか−」と題する興味深い講演をうかがった。油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜伏した大塩父子が、内山彦次郎らに囲まれて死ぬまでの間、何を考え何故に生きのびたか、この点についての仮説を大胆に示された(『大阪の歴史』第二十一号参考)。そのあと映画「風雲天満動乱」続編を鑑賞した。新東宝の作晶で、原作佐々木味津三、監督山田達雄、主演は嵐寛寿郎である。同会場参加者は約百七十名に達した。

 引きつづき第三部として、同ホテルでレセプションを開き事件を偲び約四十名で交流を深めた。

 なお当日絵はがきが建碑委員会の名で刊行された。四枚ハガキ大のカラー版で、「大塩の乱に殉じた人びとの碑」、中斎・格之助の墓、大阪城天守閣蔵の大塩平八郎画像、檄文(ハガキニ枚分)とその釈文からなる。また行事全体については、滋賀県映画センターの島田耕氏によってビデオに収められ、後日三十分に編集されて有志に頒布された。行事の内容は本誌第二十三号をご参考に。

◇近江路見学例会

 一九八七年十一月一日念願の安曇川町・高島町へ見学例会で出かけた。安曇川町出身の志村清氏の案内で大塩訪問の故地を訪ねてきわめて有意義な一日をすごした。JR安曇川駅から歩いて藤樹書院へ向い、途中小川喜大夫(秀則)家跡や大塩も通ったと思われる古門に往時をしのんだ。

 藤樹書院では松本孝太郎氏の説明をうけ、箱に「跋藤樹先生致良知三大字真蹟」とある見事な大塩の筆跡をみせて頂いた。「天保五甲午秋八月廿有五日先生忌日也 浪華大塩後素」と奥書されている。そのあと玉林寺墓地に志村周次をしのぶ墓を捜した。周次の法名は「真嶽道成居士」というが、直接それを確認できなかったが、志村周助(周次の祖父)の墓など志村家の墓のなかにあるのではないかという思いを濃くした。

 また開館準備中の中江藤樹記念館でとくに松本氏のご好意で大塩関係の史料を閲覧させて頂いた。「陽明子曰良知在夜気」云々の洗心洞主人書の軸物と、箱書に「王陽明先生全集四帙二十三冊 付藤樹中江先生之書院 天保四発巳夏六月 浪華後学 大塩後素」と懐しい筆跡を確認した。王陽明先生全集は敦厚堂蔵校。

 再ぴ安曇川駅からJRに乗って高島駅へ向い、円光寺に大溝藩主分部家の墓と近藤重蔵の墓に展じ、住職の説明をうけ、大溝藩武家屋敷(笠井家)、重蔵幽閉地・大溝港・分部神社などを見学した。遠出の見学会だったが、韓国慶北大学校師範大学副教授宋彙七(Song,Whi-chil)博士の参加もあり、志村氏の懇切な説明とあいまってみのりの多い秋の見学となった。なお同日の参加記と出席者名は本誌二十四号に掲載ずみ。

◇大塩の乱、あれから百五十年展

 八七年十一月二十四日から八八年一月二十四日にかけて大阪市福島区民センター三階の福島区郷土資料室で、福島区歴史研究会の主催で、百五十年展が開かれた。本会副会長井形正寿氏の企画されたもので、各地でミニ大塩展をという同氏の思いが、同氏が事務局長をも担当されている福島区歴史研究会の手でみのったもので、一室ながら大塩事件を知る基本資料がさまざまの工夫をこらして展示されていた。歳未本会委員会もここで開き、展示を見学した。

◇一九八八年三月総会

 三月二十六日午後一時半から成正寺において大塩父子並ぴに関係殉難者怨親平等慰霊法要を営んだ。恒例の大塩家墓所とともに新しく前年五月に建立された「殉じた人びとの碑」にも供養した。その後、藤原有和氏(関西大学図書館)による「大塩平八郎と『邪宗門一件』と題する記念講演が行なわれた。豊田貢一件で従来研究の比較的とぼしい分野であるが、慶応大学附属図書館所蔵の文書(幸田成友氏がかつて使用、「内山」と記名あり)と海老沢有道氏使用の「大坂切支丹一件」の史料をつかって論じられたもので、この事件は大塩の三大功績の一つといわれるが、見込み捜査による誤審を生んだもので、功業とはいえず、大塩の与力辞職の原因となったのではないかと指摘された。幕府の儒家林家の大塩による救済と切支丹一件は関係あると断定できるか、大塩の行為は栄進のためであったといえるか、史料のよみ方の問題等々の質間も出された。藤原氏の詳しい分析は、同名の論文(『関西大学人権間題研究紀要』第十三号にあるので、ご参照を乞う。

 その後開かれた総会では、例年の議題を審議したあと、とくに新年度の活動方針について具体的な提案があった。(1)中斎生誕二百年(一九九三年)をめざして新しく活動を強化し、大塩事典(仮称)や史料集の作成にとりくむ、(2)会の事務所を大阪履物新聞社から成正寺に移転する、(3)委員のなかから意見の出ている会長任期制について一年間検討」、来春の役員選出時に決定する、(4)委員として島野三千穂氏を補充することが諮られ、承認された。

◇一九八八年七月例会

 曽根ひろみ氏(神戸大学)をお招きして成正寺において七月十六日午後二時から例会を開いた。「大坂町奉行所の与力同心について」と題して、関西に赴任後研究を深めておられる与力同心について講演をされた。内容は同氏の「『与力・同心』論−十八世紀後半の大坂町奉行所を中心に−」(神戸大学教養部『論集』四十号)に詳しい。

◇久保在久氏の日本産業技術史学会特別賞受賞

 本会役員の久保在久氏が昨秋発刊された膨大かつ貴重な『大阪砲兵工廠資料集』(上下二巻、千五百頁。 二万八千円。日本経済評論社刊)に対して、さる一九八八年六月、日本産業技術史学会(会長、吉田光邦京大名誉教授)から第一回の〃資料特別賞〃がおくられた。そして九月十日には大阪府立労働センターで盛大な受賞祝賀パーティが開催され、各界各方面から九十名におよぶ多彩な人々が参加して祝盃をあげた。

 久保氏は、すでに一九六八年刊の膨大な『大交史』(労働句報社刊)をはじめ、『大阪地方メーデーの歴史』(六九年刊)、『大阪労働運動の歴史』(七一年、労働句報社刊)、『近代大阪の史跡探訪』(七五年、ナンバー出版刊)、『総評大阪地方運動史年表』(七六年)、『守口市職労三十五年史』(八一年)などの刊行に大きな役割をはたし、文字通り〃大阪の町人学者〃として大阪の民衆の生きざまを克明にえがいた労作を次々と共同発表してこられたが、一九七五年発足の大塩事件研究会にもただちに入会、その中心メンバーとして活躍、数多くの論稿(たとえば「紀州と大塩事件」その他)を発表してこられたのは周知のとおりである。

 すぐれた〃民衆史家〃の久保氏が、これらについで共同研究『大阪砲兵工廠の八月十四日』(八三年、東方出版刊)をはじめ、『八木信一伝‐娘の見た労働運動』(八四年、東方出版刊)の編纂にも従事され、ついに十五年にわたる研究の蓄積を生かして、このたび極秘文献を数多く含む『大阪砲兵工廠資料集』を編集発刊されることとなったのは、われわれの喜びにたえないところである。二足のわらじを履いての学究生活がどれほど苦しく、かつ思い出多い楽しいものであったか、御夫人にどれほどの御無理を強いたか――まことに想像にかたくない。

 なお『朝日新聞』(九月十四日号夕刊)が、「軍事産業が果たした役割を解く出発点に」として、この書物の意義を次のように高く評価しているのもむしろ当然であろう――。

 「『大阪砲兵工廠資料集』(上下二巻、日本経済評論社)は、日本の資本主義発展における軍事産業の役割につて、通説を覆す資料が含まれていること、また日露戦争期の軍医らによる客観的な衛生調査報告が、八十余年前の同工廠労働現場を目に見えるように再現していることなど、強い関心を集め始めている。 (以下略)」

『朝日新聞』(九月二十日号)「ひと 日本産業技術史学会の第一回特別賞受賞 久保在久さん」(略)


  ◆ 訃  報 ◆

◇城福 勇氏

 一九八六年一月二十二日急逝。一九八ニ年四月入会。行年七十三歳。香川大学名誉教授で、『平賀源内の研究』ほか著作・論文等あり、本誌へ二回御 寄稿いただいた。ご生前発表を期しておられた大塩をはじめとする阿波郷土史研究遺稿は、ご遺族が『わが残照』と題して上梓された。中斎阿波出生説には批判的であった。秀子夫人からご連絡あり。謹んでご冥福をお祈りします。

◇藤 伸氏

 一九八六年九月二十六日逝去。本会発会時入会、賛助会員、行年五十六歳。大井正一郎姉の子孫にあたる。香具波志神社の宮司をされていた。幾久子夫人からご連絡あり。謹んでご冥福をお祈りします。

◇白井俊江氏

 一九八六年九月二十六日逝去。本会発足時に入会、賛助会員。白井孝右衛門玄孫故彦一氏夫人。行年七十三歳。ご生前本会に並々ならぬご協力をいた だいた。ご子息孝彦氏からご連絡あり。本誌連載『この人に聞く』を次回に予定していたことや十月講座に関係者子孫としてご発言いただく期待も空しく痛惜の念に堪えない。ご生前の会への御協力を感謝し謹んでご冥福をお祈りします。

◇中瀬紀美子さんの計報◇

 本会役員で大阪産業大学教授中瀬寿一氏夫人紀美子さんが、一九八八年九月十二日逝去され、告別式は、十三日大塩ゆかりの成正寺で執り行われた。

 紀美子さんは、夫君の研究、執筆活動を献身的に支える傍ら、近年は古文書解読に著しい進展を示されていた。大塩事件殉難者百五十回忌記念行事(八六年三月三十日)では、研究会で初めての試み「施粥」を成功裡にやり遂げ、会誌『大塩研究』第二十・二十一合併号では、中瀬寿一、村上義光氏とともに「『鷹見泉石日記』に見る大塩事件像−大坂城代家老の描いた天保八年二月〜三月の状況−」、そして最近は同じく「史料が語る大塩事件の全国伝播と〃大塩ブーム〃−幕政批判思想の胎動、民衆文化の創造」(『大阪産大論集(社会)』第七十二号)、「粉河騷動と近藤元真」(『大阪産大学会報』第二十号)などを執筆され、大きな問題を提起された。これからの活躍が期待されただけに、告別式は早世を悼む声で満たされた。享年五十二歳。ここに謹んでご冥備をお祈りする次第である。

 なお忌明けに、中瀬寿一・哲史・かおり・寿之の四氏により『バラの花園からの便り−妻、そして母、紀美子を偲ぶ』という文集が写真入りで発刊された。


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