◇禁転載◇
当月同氏から大塩の乱にかかわる伝承も披露された。謀反の罪を蒙り肩身の狭い思いをしたこと、志摩の長男発太郎(文政七年生)はのち天草に流され明治三年四十六歳のとき赦免されたが、弟の慎次郎(天保三年生)も壱岐に、辰三郎(天保八年生)は隠岐に流されたこと、辰三郎はのち吹田に戻って志津摩と称し神社をついだが、天保以後それまで女性の手で神社を守ったこと、志津摩の妻やえは、養子宮脇芳三氏(幸穂の父)が乱のことを記録するようにいったところ、身震いがすると語ったこと等、事件の激動を示す興味深いものがあった。
また歓迎の意をこめて、とくに吹田郷土史研究会会長の池田半兵衛氏が「吹田の歴史を語る」ということで市の歴史を説明された。
大塩の漢詩六点と「何百枚か千枚になろう迚、大塩さんを訴人されうものか」という大坂町人の声(「浪華騒擾紀事」大阪城天守閣所蔵)を向江強氏が解説、事件の様相を伝える古文書を島野三千穂氏が、檄文を藪田貫氏がそれぞれ解読を担当された。グループにわかれての研究会で、いつもと一味ちがった感じであったが、寺の本堂での分散会であったために関心を集中しにくいきらいがあった。
なおこの席に、奈良県榛原町の岸本彰夫氏が、所蔵の伊勢津藩の津坂貫之進あて中斎書簡の現物を持参され、相鮮一弘氏から解説をうけた。注目すべき新史料である。
その後研究会の総会を開催した。八八年度の事業報告では、前回の総会後の例会活動、八八年八月二目に顧問岡本良一氏が逝去されたこと、会誌の発行が遅延したことの釈明、とくに前年の総会以来役員会の検討事項になっていた会長任期制の意見については、例年より頻繁に役員会を開いて種々討議をかわした結果、任期制の導入が不必要となったことを、提議され承認された。 会則のうち第一条に事務所を履物新聞社内におくと定められているが、実は前回の総会で成正寺に移すことが承認され、会則改正の手続きが脱けていたことが今回改めて示され、第一条のうち、「事務所を大阪市浪速区日本橋東一丁目一−一八 履物会館内外履物新聞社内」を削除し、「この会を「大塩中斎先生顕彰会大塩事件研究会」という」に改正することとなった。
八八年度の会計中間報告(会計政野敦子氏)ならびに監査報告(相蘇一弘氏)が行なわれ、承認された。現在会員数百六十一名で若手会員の増加がのぞまれる。
八九年度の活動方針については、会誌発行・例会の定例化、大塩中斎生誕二百年(一九九三年)を目途に、大塩事典や史料集の作成に小委員会などでとりくむこととなった。役員については、会長酒井一、副会長井形正寿・西尾治郎平、役員有光友学・安藤重雄・川合賢二・久保在久・島野三千穂・中瀬寿一・向江強・村上義光・藪田貫、顧問有光友信、会計監査相蘇一弘・内田九州男の各氏が承認された。
なお長年会の会計・庶務を一身に引きうけてこられた政野敦子氏が、事情により役員を退かれた。今後も会員の一人として協力したい旨席上挨拶があったが、創立以来会の中心的存在として、また関係者子孫として果たされた役割を思うとき、会として心から感謝する次第である。また事情がかわれば再び役員として復帰してほしいという声もきかれた。
これと類似のものが、和歌山県田辺市立図書館寄託の田所家文書『万代記』にあり、すでに本誌第十号に久保在久氏によって紹介されている。紀州藩領でいち早く渡辺村の動きについて触れ出し対策を指示したことがわかる。同領のあった和歌山県や三重県では今後村方の書留め類に発見される可能性は大きい。 いま原文を示しておく(抄出)。
天保八酉年正月
玉置理兵衛 |
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(朱書)「○」渡辺皮田之内火方与申者有之、役手相勤候奴共之内、難渋もの八拾人程江壱朱ト何程とやら大塩平八郎より救合いたし置、何等御用向有之節ハ此方之手ニ附候様、兼而役意之申聞振を以申含候付、御用向と相心得居候処、一統呼集メ、此度之不埒之申合申聞候処、意内相違致候へ共其場ニ乗掛リ候事故、無是非八拾人程之奴随其意騒動ニおよび、平八郎初江附添候趣、就而ハ渡辺辺ニ有之舟船頭水主共違背不為致、乗組出船船□之趣ニも風聞相聞候との事
(中略)
当月十九日於大坂放火及乱妨候徒党之者人相書
(後略)
今般教則三条の御趣意に基づき、猿若二丁目芝居に於て、大塩平八郎の演技を執行せる由、或る人の説にこのたびの演技は教部省より仰せ付けられたる御用芝居なりと。果して如何を知らず(明治ニュース事典第一巻)
名古屋市東区白壁町、藩士の邸のあったあたりでまだ表通りながら長屋門のある家が多く残っていた一角、大塩欽太郎宅がそれで、すでにアエン引鉄板で蔽っていたが、四注造草葺で、建て方は頗る簡素明快、大塩宗家や中斎の建築に対する考え方がうかがえて貴重であるという。西から東への傾斜地に建てられ、六畳と三畳の二間で、建物の写真四点と平面図が掲載されている。
幸田成友『大塩平八郎』によると、大坂の大塩家は代々宗家を訪い、先祖波右衛門が家康から拝領した弓を拝するのが例で、中斎も天保元年九月にこの先例を実行し、宗家に請うて六畳・三畳の書斎一棟の建増しをおこなった。幸田氏はこの棟は「現存するとのこと」とされ実見されていない。また「随分質素に成し可被下候」という註文書も紹介している。
現状をご存知の方にはぜひニュースをおしらせ願いたい。