Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.3.1

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「洗心洞通信 21」

大塩研究 第26号』1989.7 より

◇禁転載◇

 

◇吹田泉殿宮で例会

 昨年十月二十二日吹田市西の庄町の泉殿宮で研究例会が開かれた。川合賢二氏(大阪高校)が「吹田村宮脇志摩と大塩の乱」と題して講演を行なった(詳細は本誌第二十五号の同氏論文を参照)。泉殿宮(吹田村西宮神社)は、中斎の実父平八郎敬高の弟で宮脇家を継いだ志摩ゆかりの神社である。現宮司の宮脇幸穂氏には例会開催に当って格別のお世話になった。ここに厚く御礼申し上げる次第である。

 当月同氏から大塩の乱にかかわる伝承も披露された。謀反の罪を蒙り肩身の狭い思いをしたこと、志摩の長男発太郎(文政七年生)はのち天草に流され明治三年四十六歳のとき赦免されたが、弟の慎次郎(天保三年生)も壱岐に、辰三郎(天保八年生)は隠岐に流されたこと、辰三郎はのち吹田に戻って志津摩と称し神社をついだが、天保以後それまで女性の手で神社を守ったこと、志津摩の妻やえは、養子宮脇芳三氏(幸穂の父)が乱のことを記録するようにいったところ、身震いがすると語ったこと等、事件の激動を示す興味深いものがあった。

 また歓迎の意をこめて、とくに吹田郷土史研究会会長の池田半兵衛氏が「吹田の歴史を語る」ということで市の歴史を説明された。

◇一九八九年三月総会

 三月二十五日午後一時半から成正寺において、大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要を営んだ。そのあと〃みんなで読む「大塩関係」史料〃の催しに入った。講演をきくより身近かに大塩史料をよもうという新しい趣向の試みであった。

 大塩の漢詩六点と「何百枚か千枚になろう迚、大塩さんを訴人されうものか」という大坂町人の声(「浪華騒擾紀事」大阪城天守閣所蔵)を向江強氏が解説、事件の様相を伝える古文書を島野三千穂氏が、檄文を藪田貫氏がそれぞれ解読を担当された。グループにわかれての研究会で、いつもと一味ちがった感じであったが、寺の本堂での分散会であったために関心を集中しにくいきらいがあった。

 なおこの席に、奈良県榛原町の岸本彰夫氏が、所蔵の伊勢津藩の津坂貫之進あて中斎書簡の現物を持参され、相鮮一弘氏から解説をうけた。注目すべき新史料である。

 その後研究会の総会を開催した。八八年度の事業報告では、前回の総会後の例会活動、八八年八月二目に顧問岡本良一氏が逝去されたこと、会誌の発行が遅延したことの釈明、とくに前年の総会以来役員会の検討事項になっていた会長任期制の意見については、例年より頻繁に役員会を開いて種々討議をかわした結果、任期制の導入が不必要となったことを、提議され承認された。  会則のうち第一条に事務所を履物新聞社内におくと定められているが、実は前回の総会で成正寺に移すことが承認され、会則改正の手続きが脱けていたことが今回改めて示され、第一条のうち、「事務所を大阪市浪速区日本橋東一丁目一−一八 履物会館内外履物新聞社内」を削除し、「この会を「大塩中斎先生顕彰会大塩事件研究会」という」に改正することとなった。

 八八年度の会計中間報告(会計政野敦子氏)ならびに監査報告(相蘇一弘氏)が行なわれ、承認された。現在会員数百六十一名で若手会員の増加がのぞまれる。

 八九年度の活動方針については、会誌発行・例会の定例化、大塩中斎生誕二百年(一九九三年)を目途に、大塩事典や史料集の作成に小委員会などでとりくむこととなった。役員については、会長酒井一、副会長井形正寿・西尾治郎平、役員有光友学・安藤重雄・川合賢二・久保在久・島野三千穂・中瀬寿一・向江強・村上義光・藪田貫、顧問有光友信、会計監査相蘇一弘・内田九州男の各氏が承認された。

 なお長年会の会計・庶務を一身に引きうけてこられた政野敦子氏が、事情により役員を退かれた。今後も会員の一人として協力したい旨席上挨拶があったが、創立以来会の中心的存在として、また関係者子孫として果たされた役割を思うとき、会として心から感謝する次第である。また事情がかわれば再び役員として復帰してほしいという声もきかれた。

◇尾鷲大庄屋記録にみる大塩記事

 三重県尾鷲市立中央公民館郷土室に彪大な尾鷲大庄屋文書が架蔵・整理されている。そのなかに大庄屋玉置理兵衛がかきとめた記録がある。大塩関係では渡辺村の参加の様子が記されていることは興味深い。

 これと類似のものが、和歌山県田辺市立図書館寄託の田所家文書『万代記』にあり、すでに本誌第十号に久保在久氏によって紹介されている。紀州藩領でいち早く渡辺村の動きについて触れ出し対策を指示したことがわかる。同領のあった和歌山県や三重県では今後村方の書留め類に発見される可能性は大きい。 いま原文を示しておく(抄出)。

◇越後柏崎生田万の乱の史料

 『柏崎市史資料集 近世篇2下』に、天保八年六月に大塩の乱の影響をうけて起った生田万の乱の基本史料が三十ぺ−ジにわたって紹介されている。編集は新沢佳大氏で、同氏は本誌十一号にこの乱について論文を発表されている。一九八五年十二月刊。定価三千五百円、送料は地域によって異なるが、大阪・京都・兵庫などは六百円。詳細は(〒九四五)柏崎市東本町一丁目四−一一 柏崎市立図書館内 柏崎市史編さん室〔電話○二五七・二四・三九五四〕に問合わせられたい。

◇津市石水博物館展示に大塩筆跡

 一九八七年九月から十月にかけて津市丸の内の財団法人石水博物館(川喜田家所蔵品を展示)で催された秋季館蔵名品展に、「読洗心洞剳記」と題した宇都木靖の「斯人果是有期書」云々の詩文(『剳記附録抄』に収む)があり、「右律詩彦藩大夫宇都木氏之作也」云々、「癸巳秋八月(天保四年)洗心洞主人」と記されている。筆跡は大塩とみて間違いなかろう。

◇明治初年の大塩御用芝居

 明治五年七月 新聞雑誌
  大塩平八郎の御用芝居

 今般教則三条の御趣意に基づき、猿若二丁目芝居に於て、大塩平八郎の演技を執行せる由、或る人の説にこのたびの演技は教部省より仰せ付けられたる御用芝居なりと。果して如何を知らず(明治ニュース事典第一巻)

◇名古屋・大塩中斎隠栖の家の記録

 会員の志村清氏のご教示により、城戸久(当時名古屋高等工業学校教授)『先賢と遺宅』(那珂書店、一九四二年刊)に「大塩中斎隠栖の家」という文章があることを知った。

 名古屋市東区白壁町、藩士の邸のあったあたりでまだ表通りながら長屋門のある家が多く残っていた一角、大塩欽太郎宅がそれで、すでにアエン引鉄板で蔽っていたが、四注造草葺で、建て方は頗る簡素明快、大塩宗家や中斎の建築に対する考え方がうかがえて貴重であるという。西から東への傾斜地に建てられ、六畳と三畳の二間で、建物の写真四点と平面図が掲載されている。

 幸田成友『大塩平八郎』によると、大坂の大塩家は代々宗家を訪い、先祖波右衛門が家康から拝領した弓を拝するのが例で、中斎も天保元年九月にこの先例を実行し、宗家に請うて六畳・三畳の書斎一棟の建増しをおこなった。幸田氏はこの棟は「現存するとのこと」とされ実見されていない。また「随分質素に成し可被下候」という註文書も紹介している。

 現状をご存知の方にはぜひニュースをおしらせ願いたい。

◇NHK大塩の乱を放映

 さる六月三十日午後十時から四十五分間、NHKテレビのシリーズ番組「歴史探訪」で、「『配達されなかった三通の密書』スクープ!大塩平八郎の乱の真相 大疑獄発覚」が放映された。静岡県韮山の元幕府代官江川太郎左衛門の関係文書のなかから、先年青木美智男氏が発見、紹介された密書二通のほかに、今回第三の密書が文書整理中みつかったので、それを中心に取り上げたものである。大阪の取材には井形正寿・政野敦子らの諸氏が協力され、会所有の「救民」の旗もひるがえっていた。番組の内容については、新史料を入手した上で改めて研究会として検討する予定である。


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