Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.9.11

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「洗心洞通信 22」

大塩研究 第27号』1989.11 より

◇禁転載◇

 

◇伊丹市で例会

 七月一二十日午後、酒造の町兵庫県伊丹市内の見学会を催した。当日正午に阪急伊丹駅に集合、市バスで市立博物館へ赴き、常設展ととくに展示してもらった伊丹郷町絵図を観賞した。同館主任学芸員の和島恭仁雄氏の懇切な説明をうけ、その後バスで伊丹駅へ戻ったあと、旧在郷町を徒歩で順次見学してまわった。駅からくすの木寺として有名な法巌寺の西側(荒木村重の有岡城惣構の西端)を通り、猪名野神社へ行き、江戸初期から中期にかけて酒造家によって建てられた参道の石燈篭やここに合祀された愛宕社、鬼貫の句碑などを見、さらに柿衛文庫の常設展をみた。酒蔵の趣きをのこす文庫でひととき休憩したあと、JR伊丹駅西側にある村重の居城有岡城址に立った。駅前の改良事業で城あたりのかっての景観は一変している。

 その後鬼貫ゆかりの墨染寺へ参り、ここで一旦集会をうちきり、健脚組は産業道路から阪急バスにのって植松へ出かけた。伊丹郷町の南端に位する植松村は、馬借二人が乱に関係し、とくに額田善右衛門は檄文の配付を担当し劇的な生涯を終えた人物である。街道ぞいの町並みはかなりくずれているが、ところどころ善右衛門の住んた家と同じような中二階の家が残っている。

有岡城惣構の南端にあたるというひよどり塚にのぼったが、低いながら一望池田や大阪を見渡すことができた。薬師堂があり鬼貫の句碑が建てられていた。もと古墳だともいう。

JR線路のすぐ西側にある杜染寺に思いがけず「額田」姓の墓碑が見つかった。額田子発翁基(天保十五年六月歿、弘化三年建)で尊攘派の学者橋本香坡波の撰文がある。そのよこに額田孺子森氏之墓(嘉永元年二月)があり、夫婦一対とみられる。善右衛門とのかかわりはわからないが、調査の必要がある。なお現在植松には額田姓の人は住んでいない。

当日新聞を見て参加した方もあり、夏の午後半日を歴史の面影をのこす伊丹市ですごして、収穫の多い例会であった。ご多忙中終始歴史散策につきそい説明を加えられた和島氏に厚く御礼申し上げる次第である。

◇「救民」論

大塩勢がひるがえした「救民」の幟は、その行為を象徴するものであるが、もともとは何の意味につかわれていたのか。漢和辞典にないこの字は、実は薬名に使われたものだった。たとえば水戸光圀が名医穂積甫庵につくらせたのが、「救民妙薬」という本で、家庭用医学書として日本最初のものである。

大塩は、これに社会的意味を与え新しい用語として乱のときに採用したものである。同じ頃渡辺崋山が名づけたと伝えられる三河田原藩の「報民倉」(いまその木製の扁額がのこされている)とくらべると、崋山らしいやさしさと人民観に対し、「君の君たる」ゆえんを説いて領主支配者として窮民を救うべしとする大塩の立場との差がうかがえるような気がする。

その後天保改革時とそれに至る領主文書に、檄文にみる表現がしばしば散見し(例証は略すが)、大塩事件の衝撃の大きさを思わせるが、開国後の記録にも「救民」があらわれる。

たとえば和歌山藩では、安政六年八月に領内「救民」の為め、改革の仕法を立てるべく巡村をはじめており、元治二年四月には「救民方祠堂銀」を村々が拝借しており、「総分救民方」の名で年賦の元利を持参するよう触れている。藩政改革の結果登場したものであろう。くわしくは『和歌山県 近世史料四』を参考されたい。

◇会員の訃報

本会に協力していただいていた会員がお亡くなりになった。ここにお知らせするとともに、哀悼の意を表する次第である。

足立巻一氏 作家で神戸女子大学教授。八五年八月十四日、七十三歳で逝去。文筆家・詩人としても幅広く秀れた活動をされた。江戸時代の盲目の歌人で国語学者であつた本居春庭の評伝『やちまた』で芸術選奨文部大臣賞をうけ、自分史をもとにした『虹滅』で日本工ッセイストクラブ賞を受賞された。本会には七七年七月に入会され、関西電力の広報誌に、本会の例会を取材して紹介された。

林田良平氏 池田の人、文人。池田郷土史学会の副会長(会長は代々池田市長)として、池田・北摂の歴史研究を重ねられ、戦前から大きな仕事をされた。史料も多く所蔵されており、本誌にも天保八年の能勢騒動についての文章をいただいている。林田炭翁(安平)とともに親子二代、大阪府の文化を考える上で大切な方だった。八七年十一月三十日八十七歳で逝去された。

 板橋三郎氏 堺市在住、昨年九月十五日に病死された。八八年七月入会され比較的新しい会員であるが、これからの御協力が期待されたが、惜しくも亡くなられた。


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